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蛹から出てくる成虫の種類は決まっている
明治維新は国家としての「脱皮」だったのではないか、と私は思うのですが「脱皮」というのは中から出てくる成虫は決まっている訳で蝶のサナギからカブトムシの成虫は羽化しません。
この「脱皮」という言葉を使ったのは、ペリーの来航までに既に中から出てくる虫の種類は決まっていたと思うからです。
近世までの日本は、島国のメリットを最大限に生かしてきた
末期までに日本が歩んできた歴史の大きな特徴は、中国や韓国から断続的に技術・学問・宗教を取り入れながら、大陸とは上手く距離を置き、それを日本流にアレンジして独自の文化・支配制度を作り上げて来たというところでしょう。
日本は島国ですから、江戸時代の初期は大陸のように常に他国や異民族の外圧にさらされる事も無く、国内統治さえ上手く行っていれば太平の世が続く環境でした。
そこで徳川家康が作り上げた、幕藩体制の統治システムが国内統治という面では力を発揮して、260年もその体制が続きます。
産業革命で島国を取り巻く環境が激変した
しかし幕末になり、アメリカや西欧諸国の拡張主義の手が日本にも伸びて来た時に、島国で有る事の特性が半減してしまいました。
産業革命により、国境を接していない国からでも、海を介して簡単に上陸を許してしまう国になってしまったんですね。
そこで、国家として脱皮をする必要性が生じた訳です。
そこでまず、江戸時代の封建制度の大きな特徴について考えてみます。
1.身分制度が絶対的な物であり、原則として世襲で引き継がれる。
2.幕府が強力な統治権を有し、諸藩の自治権の範囲をコントロールしていたが、各軍隊は諸藩に帰属する。
幕末に向かうにしたがってこの特徴が薄れて行くのですが、封建制度というのはこの二つの点で外圧に対抗するには問題がある制度でした。
身分が世襲で固定されてしまうと、能力のある者が活躍出来ませんし、戦国時代を見れば分かるように戦乱の時代というのは実力主義を求めるようになります。
また、軍隊も各藩の私兵の集まりという事になり、外国に対抗するには不利な体制です。
ここでお隣の中国の状況を見てみましょう。
当時の清国は中央集権国家だったが・・・
常に異民族の脅威にさらされるていた中国は、清朝までは皇帝(官僚)が絶対的な支配力を持つ中央集権国家でしたし、科挙によって能力がある者が官僚として重用されるシステムでした。
対外的に紛争が頻発するような国の場合は、こういった強固な中央集権と実力主義でやっていかないと隣国に滅ぼされてしまう可能性がある訳です。
実際のところ元・清王朝は異民族の王朝なんですが、統治システム自体は漢民族の物を引き継いでいますから、大陸の帝国としてはよほど都合のいいものだったのでしょう。
この清国もアヘン戦争などでイギリスに良いようにやられてしまうのですが、これは統治体制の問題ではなく、「中華思想」という「中国が世界の文明の中心で他は劣等」という考え方から、西欧文明を軽視した事が問題だと思われます。
産業革命を経て大幅に進歩した、西欧の技術を取り入れる事には消極的でしたし、そこから何か学ぼうという意思は当初全くありませんでした。
当時から、中国に他国から何かを学ぼうとする姿勢があれば恐ろしい事になっていたと思いますし、現在はそういう姿勢がありますので今後は恐ろしい事になって行くと思います。
日本が外圧に対抗する為に抱えていた問題点
さて、ここで話は戻りますが、大きな視点から見ると封建制度と鎖国政策により、当時の日本が外圧に対抗するには以下の問題がありました。
この問題をひとつずつ解決して行きながら、やがて外国に対抗しうる国家となって行きます。
1.人材登用面での柔軟性のなさ
2.権力と軍事力の分散
3.産業・軍事面での技術の遅れ
特に問題が大きかったのが、1.人材登用面での柔軟性のなさについてですが、これは幕府・諸藩での対応は様々です。
封建制と相容れない身分の低い者の重用
幕府の場合は外国の脅威に対してどう対応して行くかという問題を抱えた際に、世襲で引き継がれた能力のない上級の旗本達よりも、身分は低いが能力のある下級の旗本や、御家人株を購入した農・工・商の家格の優秀な者たちが重用されるようになります。
その代表格が勝海舟なのですが、他にも岩瀬忠震・大鳥圭介など、家格にとらわれずに実力で出世していった人がいます。
こういう家格を重視しない人材登用というのは、家康以来の封建制度の根幹を揺るがしかねない行為だったと思いますし、反対する者も多かったでしょう。
ここで一般的に指摘される、儒教と幕藩体制の矛盾というものが問題になってくる訳です。
儒教は中国の統治制度の教科書みたいな物です。
徳のある者が政治を行うべきであり、善政を行わない君主は打倒しても良い、というのがその思想の根幹です。
日本は島国であり、外圧に関しては中国とは違いましたので、儒教を実際の政治に部分的に取り入れる形で、善政を行おうとしてきました。
しかし、前述したように、産業革命によって日本も外国の脅威にさらされるようになると、この儒教寄りの人材登用を行っていく訳ですが、本来これは幕藩体制と相反する物ですから、封建制度の基盤が揺らいで行く事になります。
実際にこういった形で低い家格から出世していった人達は、老中や高禄の旗本達が如何に無能であるかを痛感していたでしょうし、幕府に対しての忠誠心と、国家としての利益を天秤にかけた時に国家の利益を優先する思考が強った人が多いようです。
世襲の身分制度なんかクソ喰らえ、といった心情だったかも知れません。
しかしながら、彼らはそれでも幕臣でしたから、大っぴらにそんな事を言えば下手をすれば切腹ものです。
苦悩の日々が続いた事でしょう。
こういう封建制度自体を揺るがすような人材登用を行っていった訳ですが、これは外圧の中で日本が生き延びる道を考えた時にやむを得ない選択であり、それが歴史の自然な流れというか、日本にそれを行わせるだけの実力(歴史の積み重ね)があったという事だと思います。
幕府内部でも、幕府なりにこういった危機に対応する動きがあった訳です。
また、開明的な人たちは、この封建制度の矛盾に気が付いていた筈ですから、今の幕藩体制ではこの危機を乗り切る事は出来ないと思っていた事でしょう。
勝海舟は早くから幕府が政権を返上し、公議によって政治を行うべしとしていましたが、明治維新後に当初実行された各藩主による公議というのは全く機能していません。
そもそも各藩主というのが実力でもなんでもなく、世襲で身分を引き継いだ人が多かったからです。
小栗忠順による近代的な幕府権力の強化思想
また、小栗忠順などは幕府の権力を強化して、幕藩制を郡県制とし、強力な幕府の中央集権にもって行きたかったそうです。
小栗は高禄の旗本でしたから、そういう考えになったのだと思いすし、日本を手っ取り早く強化する事を考えた場合は、幕府側の人間としてはこれが一番理にかなった支配体制だったと思います。
ただ、これも現実を考えると幕府の支配力が著しく低下し、ガタガタになりかけていましたので実現は不可能でした。
しかし、統治システムという観点から考えた場合は、小栗の発想は当時の日本が最も必要としていたところに近いと思います。
つまり強力なリーダーによるパワープレイですね。
改革は外様大名から進んで行った
幕府の対応は前述のような物でしたが、これが諸藩の対応になると、徳川家に恩を感じていない、もしくは薩摩・長州などのように関ヶ原以来恨みを持っている藩が一番分かり易く、能力のある者をどんどん重用して行きます。
外様大名にこういった傾向が多く、逆に譜代・親藩になると弱くなる感じですね。
外様大名にとっては徳川幕府が崩壊しても、自分たちが新しく出来た政治体制の中枢に居座れればなんら問題がない訳です。
実力のない藩主達は舞台を降ろされた
しかし、誤算として儒教的な発想で行くと、徳(実際には実力)の無い幕府の君主は倒しても良い事になり…ここまでは問題ないのですが、いざ新体制がスタートしてみると、自分たちの徳(実力)の無さを露呈してしまい、大久保利通を中心とした実力のある家格の低い人達に権力を持って行かれてしまいます。
まぁ、最終的に小栗と大久保は、明治維新後の一時的な機構であれ、日本を急成長させる為に似たような統治機構を考えていた(統治する側は違いますが)というのが面白いところですし、そうやって家格の低い実力者たちが権力を持って行く訳です。
明治維新は国難に対抗する為に自然に湧き起こった流れ
また、これは面白いだけではなく、これが時代に要求されて起こった事であるというか、起こるべくして起こったと捉える事が出来ると思います。
「誰それ」がああして、こうして、という事も重要な要素だとは思いますが、仮にその「誰それ」がいなかったとしても、遅かれ早かれ明治維新は行われていた、と私は考えていますし、それがその時点での日本の歴史の集大成なのでしょう。
ですから、最初から出てくる虫の種類は決まっていて、羽化の時期が少し変わっただけだ、というところです。
だた、その羽化の時期が遅くなりすぎてしまうと、外国にパックリ食べられてしまったかもしれませんので、「誰それ」の存在というのは、やっぱりそういった意味で重要だったと思います。
かなり、個人的な見解で恐縮ですが、明治維新はそれぞれが歴史に与えられた役割というのを、討幕側・佐幕側ともに皆が全うした事によりなし得たと、そういう見方をしています。
戊辰戦争の敗者も、西南戦争の敗者も、日本が脱皮する為には痛みが必要ですから、自分の志を貫き通して、その痛みを背負って行ったと捉えることが出来ます。
明治維新は暴力革命か?
暴力が政局を変えてきた
ペリー来航から大久保利通の暗殺までをざっと振り返ってみると、政局が変わる重要な場面では、大抵暴力による実力行使が行われています。
1.安政の大獄…警察力による暴力
2.桜田門外の変…テロによる暴力
3.志士による天誅…テロによる暴力
4.新撰組の取り締まり…警察力による暴力
5.蛤御門の変…軍事力による暴力
6.長州征伐…軍事力による暴力
7.孝明天皇の暗殺…テロによる暴力(あくまでも岩倉具視による暗殺の疑いがあるというだけですが)
8.戊辰戦争…軍事力による暴力
9.西南戦争…軍事力による暴力
10.大久保利通の暗殺…テロによる暴力
明治に入っても、しばらくは暴力と暴力のぶつかり合いが続きます。
ということは、やっぱり明治維新は暴力による革命だったのかって事になるのですが、確かに暴力による革命だったと言わざるを得ないでしょう。
西南戦争やフランス革命はどうか?
ただ、世界の歴史を見ると暴力の程度が違います。
フランス革命の死者数は数十万とも100万とも言われています。
アメリカの南北戦争も死者数は20万程度でしょうか。
戊辰戦争の死者数は1万8千~9千、西南戦争の死者数は1万3千~4千となっていますから、これ以外の戦争や戦闘、暗殺などを含めてもこれが2倍、3倍になる事もないでしょう。
現代の我々の価値観からすると、暴力=忌むべき物となるかもしれません。
もっと遺恨を残さずに、明治維新を成し遂げる事ができなかったかという疑問も抱き得ると思います。
しかしながら少し冷静に考えてみると、過去の歴史では国内外を問わず人間の権力闘争では必ずと言っていい程多くの血が流れていますし、幕末維新の時代でもそれは世界の常識だったでしょう。
日本の庶民の学力、文化レベルが高かった
戊辰~西南戦争の戦死者数と、世界の内乱や革命の戦死者数を比較すると前者の方が圧倒的に少ないですよね。
これは当時の日本が、軍備・産業の面では欧米に大きく引き離されていましたが、文化や教育、精神性のレベルは世界でもトップクラスだったという事が重要なポイントだと思います。
寺子屋の普及により、商人や農民にも学問が普及していましたので、当時の日本男子の識字率は50%を超えており、これは当時の世界一の数字でした。
当初は開国・攘夷を巡って国論が割れ、その後は権力を巡っての争いになる訳ですが、これは根本的には「日本という国家として外圧にどう対抗して行くか」という問題から発生しており、大部分の人がそれぞれに国家を憂う気持ちを持ってのです。
そういう思いがあったからこそ、他国に比べて少ない犠牲で済んだのではないかと思います。
ちなみに戊辰戦争を回避出来たとしたら、現実としては明治になってからも不平士族の反乱が各地で起きている訳ですから、これに旧幕府側の士族が勢いを残したまま加わっていた可能性が高いでしょう。
戊辰戦争時の新政府側の徹底した討伐姿勢は、心情的にはあまり良い物ではないのですが、結果としては西南戦争時に旧幕府側の士族が蜂起していたとすると、兵器の殺傷力が一段と高まっている分、もっと悲惨な結果になったのではないかと想像してしまいます。
従って、日本は最小限の暴力で上手く動乱の時代を乗り越え、新しい国家に生まれ変わる事が出来たという評価で良いのではないかと思います。