仙台市 戊辰戦争の史跡

幕末史跡

春院 奥羽列藩同盟会議責任者「玉虫左太夫」の墓

仙台藩の玉虫左太夫は奥羽越列藩同盟会議の責任者だった人物で、日米修好通商条約の批准の際に渡米し、その後幕府の独断的なやり方を否定しています。

アメリカに習って民主主義的な社会変革を目指しており、幕藩体制に対しては懐疑的な思想の持ち主だった様です。

勝海舟同様に広い視野を持ち、日本の未来を大局的に見据えていましたが、一方で彼は義の人でもあり理不尽に追い詰められた会津藩を救済する為に力を尽くしている仁義を通した人物です。

明治の世でも国家の為に活躍できる力がありながら、左太夫は列藩同盟会議責任者として戊辰戦争敗戦後に戦争責任を問われて切腹を命じられています。

己の志を貫き、筋を通して死んでいった誠の武士ですね。

保春院 玉虫左太夫の墓

仙台駅西口バスプール
5番のりば…荒町・若林区役所経由沖野・閖上行
6番のりば…荒町・若林区役所経由古城三丁目、遠見塚・霞の目、深沼、農業園芸センター、荒井行
若林区役所で下車

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墓石が傾いています。

現代ではあまり有名ではない人ですが、日本の歴史はこのような偉人達によって創られてきました。

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仙台市 戊辰戦争の史跡 瑞鳳寺

瑞鳳寺 西南戦争敗者 鹿児島県人七人の墓

仙台駅西口バスプール15番乗り場から「るーぷる仙台」に乗り、4つ目で下車すると瑞鳳寺に向かう坂が見えてきます。

この坂の途中に旧薩摩藩士七人の墓があります。

関東から東北にかけて存在する西南雄藩系の藩士達の墓は、ほとんどが戊辰戦争における戦没者の墓である事が多いのですが、この墓は西南戦争後に宮城県内の開発に従事した鹿児島県人の墓です。

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明治十年西南戦争に従軍し、敗戦後に官軍に投稿した西郷軍は、国事犯として全国の監獄署に護送されました。

宮城県には305人の国事犯が収容され、彼らは自ら宮城県内の開発を願い出て開墾作業や築港工事に従事し、明治初期の宮城県の開発に大きな役割を果たしています。

このうち13人は獄中で病死してこの地に葬られたそうです。

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西南戦争の敗戦で自らの志を国政に反映させる事は出来ませんでしたが、その後も国家の為に国の開発に従事して死んでいった人達です。

彼らが無念の思いで死んでいったか、満足して死んでいったかは分かりませんが、そういう生き方をした人達がいたという事を知るだけでも、我々現代人の生き方を考える上での助けになるのではないでしょうか。

仙台東照宮

仙山線東照宮駅を降りて駅前の公園を抜けると右手に仙台東照宮が見えてきます。

仙台東照宮

仙台東照宮は、日光東照宮同様に徳川家康を祀った神社です。

この地はかつて徳川家康が大崎一揆の視察を終えて江戸に戻る途中に、仙台藩祖伊達政宗公と共に宿陣した事があり、それ故に社地に選ばれたとされています。

仙台藩二代藩主伊達忠宗公は徳川幕府への尊崇・感謝の標として1649年、三代将軍徳川家光に東照宮建設の許可を得ます。

表向きは尊崇・感謝という事でしたが、実際のところ強大な力を持つ伊達家が二心を抱かず、徳川家に忠誠を誓うという証であったと言われています。

藩祖政宗公が稀代の名君で実力者であった為に、代々の仙台藩主は徳川家から警戒される事に対してかなり気を遣っていました。
自国領安堵の為の知恵であったと言えます。

石畳の鳥居抜けると、国指定重要文化財の石灯籠が無数にそびえび立つ石段が眼前に現れます。

この石灯籠は奉納された年代がそれぞれ違っており、石の材質や形も微妙に違う様子が見てとれ、見る者に永い歴史を感じさせます。

仙台東照宮

石段を上りきるとその先では国指定重要文化財の隨身門が重厚な門構えを見せています。

仙台東照宮
隨身門をくぐり、ようやく本殿に到着しました。

仙台東照宮

清浄光院 星恂太郎の墓

仙台東照宮から南に歩き、線路を渡ると数分で額兵隊隊長の星恂太郎が眠る清浄光院に辿り着きます。

清浄光院,星恂太郎,額兵隊

墓自体は比較的目立つ場所にありますが、現在は無縁仏になっており、寺が管理をしているそうです。

清浄光院,星恂太郎,額兵隊

仙台藩 星恂太郎と額兵隊

軍備の近代化が遅れていた仙台藩ではありますが、額兵隊と呼ばれるイギリス式の訓練を受けて、元込め式のスナイドル銃を装備する最新鋭部隊がありました。

額兵隊は赤と黒のラシャ服(ウールの織物)を身に纏い、ラッパ手や軍楽隊も備えた本格的な西洋式部隊です。

星恂太郎(ほしじゅんたろう)は若い時に仙台藩を脱藩しますが、江戸や横浜で兵学を学んだ後に帰国し、額兵隊の隊長としてこの最新鋭の部隊を指揮する事になりました。

残念ながら、額兵隊が調練を終えた時に仙台藩が降伏を決めてしまい、出陣の機会を与えられる事はありませんでしたが、恂太郎は仙台藩に見切りをつけ、榎本艦隊に合流し大鳥圭介の伝習隊に次ぐ函館政権の主力部隊として奮戦します。

函館戦争で生き延びた恂太郎は、蝦夷地で製塩業を営みますが業績が芳しく無かった為に仙台に帰国した後、病に倒れ37歳の若さで命を落としてしまいます。

恂太郎の墓は仙台市青葉区にある清浄光院で、無縁仏となっています。

現在は寺が管理しているそうですが、この様な国家に忠義を尽くした英雄が無縁仏になるというのは寂しい限りです。

龍雲院 細谷十太夫 林子平の墓

仙台藩、烏組隊長の細谷十太夫が眠る龍雲院は仙台市街北西部の住宅地の中にあります。

この辺りは非常に寺社が多く、歴史を感じさせる町並みとなっています。

龍雲院

受験生に人気の細谷地蔵。

龍雲院

龍雲院,細谷地蔵

細谷十太夫の墓。

龍雲院,細谷十太夫の墓「

こちらは林子平の墓です。

龍雲院,林子平の墓

林子平は1700年代後半の仙台藩出身の経世評論家で、尖閣諸島問題でもその名を知られています。

少し興味の範囲を広げてみると、意外な発見があるものですね。

仙台藩 細谷十太夫と烏組

仙台藩と言えば、徳川家康や豊臣秀吉と互角に渡り合った伊達政宗公が余りにも有名で、幕末期に活躍した英雄達は一般的にあまりその名を知られていない様ですね。
戊辰戦争後期には、奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩は東北での主要な戦闘に参加しましたが、軍備の近代化が遅れた為に、各地で辛酸を舐めさせられる結果となりました。

正規軍の戦闘は、前述の通り芳しくない状況が続いていましたが、細谷十太夫率いる烏組と呼ばれたゲリラ部隊は、宵闇に紛れて新政府軍に奇襲をかけ、30数回の戦闘でことごとく勝利を収めたと言われています。

細谷十太夫という人は仙台藩大番士であり、他藩の情報を集める密偵でありましたが、白河での同盟軍の敗戦後は須賀川で博徒や侠客を集めて衝撃隊を編成しました。

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その装束が黒であった事、隊長の十太夫がカラスを連れていた事から烏組と呼ばれる様になったそうです。

会津戦争でのゲリラ戦でも同様ですが、武器や戦術の差は白兵戦を伴う市街のゲリラ戦においては、必ずしも戦局を決定する要素ではなかった様です。
新選組をはじめ、旧幕府側の軍隊は斬り合いには強かったんですね。

戊辰戦争後の十太夫は西南戦争や日清戦争にも従軍し、晩年には仙台市内にある龍雲院の住職となり戦死者達の慰霊につとめています。

現在では連戦連勝の十太夫にあやかろうと、受験生の間では龍雲院にある細谷地蔵詣でがブームとなっているそうです。

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