白石市 戊辰戦争の史跡

白石城下 片倉家中武家屋敷 幕末史跡

白石うーめん

東北本線の白石駅を降り外に出ると、駅前には「白石うーめん」のお店が数軒見えてきます。

折角なのでそのうちの一軒に入ってみる事にします。

白石うーめん

因みに「うーめん」というのは白石の独特の製法で作られた麺で、そうめんと違って油を一切使わず小麦粉と塩水で作られています。

ここで選んでみたのは3色ダレ。

3種類の味が堪能出来てお得です。

白石うーめん

左から普通の麺ツユ、クルミ、ゴマです。

味は個人差があると思いますが、個人的にはクルミ⇒ゴマ⇒麺ツユという感じでした。

肝心の食感ですが、食べ比べをしないと私にはそうめんと区別が付きませんね。

分かる人には分かるんだと思います。

まぁ、違いの分からない男ですから仕方ありません。

美味しくて満足したので良しとしましょう。

白石城 奥羽越列藩同盟の舞台

白石城は伊達政宗公の腹心である、片倉小十郎の居城として有名ですが、戊辰戦争後期には奥羽越列藩同盟結成の舞台として歴史上の重要な役割を果たしています。

江戸時代の一国一城令により、大名の居城以外の城は全て廃城となりましたが、加賀藩の小松城と仙台藩の白石城は格別のはからいを受けて残されました。

仙台藩の南の守りを固める片倉家の居城白石城、城下町は幕末まで260年間に渡り栄え、白石固有の文化を育んでいます。

天守閣は明治7年に取り壊されましたが、平成7年に130年振りに再建されています。

白石城

天守は3階建てとなっており、戦後の木造復元天守では、高さ・広さ共に最大級を誇ります。

白石城 天守閣 大櫓

当日は生憎の曇天で、やや霞掛かっていました。

右手に見えるのが東北新幹線、白石蔵王駅です。

白石城 天守閣 城下町

城内には「白石城・歴史探訪ミュージアム」もあり、片倉家にまつわる展示品の他、立体ハイビジョンによる映画2作品を上映しています。

この日は第一作の奥羽越列藩同盟秘話「賊にはあらず」を観てきました。

中々の迫力でしたし、こういう物に触れる事により地域の子供達は故郷の歴史に誇りを持てる様になるのではないかと思います。

白石城下 片倉家中武家屋敷

白石城の裏手の沢端川沿いの道を上流に向かって進むと、ほどなくして片倉家中武家屋敷(旧小関家)が目に入って来ます。

白石城下 片倉家中武家屋敷

川岸は土塁になっており、かつてはこの川沿いに武家屋敷が連なっていた事をうかがい知ることが出来ます。

小関家は中級藩士だったそうですが屋敷は質素な造りとなっており、当時の中級藩士の暮らし振りを想像する事が出来ました。

白石城下 片倉家中武家屋敷

庭園も質素ではありますが、それ故にそこにわびさびを感じる事が出来るのでしょう。

屋敷の前を流れる川沿いに、駅方面に向かって歩くとこんな光景に遭遇しました。

人慣れした大きな鯉が無数に泳いでいます。

白石城下 片倉家中武家屋敷

奥羽越列藩同盟

初代会津藩主「保科正之」をご存知でしょうか。
徳川幕府第2代将軍秀忠の子である正之は、幕府において仁政を尽くした事で名君として非常に名高い人物ですね。
会津藩がここまで徳川幕府の為に尽くしたのは、正之が残した家訓があったからです。
これが「幕府の為に忠勤を尽くさない奴は我が子孫ではないと思え」という感じなんですが、藩主はもとより家臣達から見ても、これを守らない藩主は主君とは認めるなって事になるんですね。

さて、奥羽越列藩同盟についてですが、実は保科正之の存在が幕末の会津藩、奥羽・越後の諸藩の行動にも大きな影響を与えていたんです。

なかなか歴史の表舞台に出てこない奥羽・越後の諸藩ですが、会津藩が朝敵とされた時にこれを救済しようと尽力しますよね。
これには藩の命運を掛けた重大な選択が必要だったのは、当時の状況を考えれば想像に難くないと思います。
ここにも沢山の物語が存在した筈ですが、現在語られる事はあまり多くないですね。

新政府軍の奥羽・越後の諸藩に対する対応というのは、会津藩を攻撃しなければ同じく朝敵とみなす、という非常に酷なものでしたから、各藩ともに藩論が分かれた筈ですね。

奥羽越列藩同盟に加わった理由というのは、個々の藩によって様々なものがあったと思うのですが、その中には「過去の恩義に報いる」という要素も含まれていました。

まず、米沢藩上杉家ですが第3代藩主上杉綱勝は嗣子を残さずに27歳で病没してしまい、上杉家はお家断絶の危機にさらされます。
この時に正之は上杉家が実は吉良家の長男である綱憲を養子にしていたのだが、幕府に届け出を出し忘れていたという事にしてやり、30万石から15万石への減封で済ませています。

次に河井継之助で有名な長岡藩牧野家です。
河井継之助

1675年、越後に餓死者2万人以上を出す大飢饉が起きた時に、正之は米2,000俵、大豆1,000俵を送って長岡藩を救っています。

こういった非常時の対応が特に優れていた正之は名声が高く、人望があったんですね。
正之の恩を受けた藩は他にもあると思うのですが、こういった恩を長い年月忘れずに、東北・越後の諸藩は会津と共に戦う道を選ぶ事になります。
これだけが理由ではないでしょうが、これも大きな理由だと思います。

さて、この奥羽越列藩同盟はご存知の通り、新政府軍に短期間で敗北してしまい、その後も朝敵藩の烙印を押される訳です。

私個人としては、この戦いに命を掛けた列藩同盟側の人達も、とても立派だったと思いますし、もっとスポットを当てても良いんじゃないかと思う訳であります。

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