古河市 古河城址 古河歴史博物館 鷹見泉石記念館
幕末を題材にした書籍にはあまり登場しませんが、茨城県南西部に位置する下総古河藩主は、代々老中などの幕府要職を歴任しており、1837年の「大塩平八郎の乱」から1853年の「ペリー来航」あたりにかけての幕末動乱の初期にも、幕政に関与しています。
第4代藩主「土井 利位」(どい としつら)は大坂城代の時に、「大塩平八郎の乱」を鎮定し、この功績によって、京都所司代に抜擢されます。
さらに、1839年には幕府老中に任命され、幕府内での発言力を高めて行きました。
また、古河藩では最も知名度が高いと思われる「鷹見 泉石」(たかみ せんせき)を家老に抜擢しています。
泉石は23歳で鷹見家250石の家督を継いでいますが、徐々に昇進し、1831年に47歳で家老500石の座に就いています。
元々上級藩士の家ではありましたが、徐々にその実力を買われて出世していった感じでしょうか。
「大塩平八郎の乱」の時にも、泉石が現場で指揮に当たり、乱を平定しています。
ここまでは「実務力が高い能臣」というイメージなのですが、「政治家」としても非常に開明的な思想の持ち主で、早くから西洋事情に精通していました。
「蛮社の獄」で有名な「渡辺華山」とも親交を厚くし、様々な情報交換を行っています。
ペリー来航に際しても幕府に意見書を提出しており、その内容は「外国の技術を積極的に取り入れる」という内容でしたので、当時では少数派の先進的な思想の持ち主だったという事でしょう。
後に、「岩瀬 忠震」(いわせ ただなり)と共に日米修好条約の調印に当たった「川路 聖謨」(かわじ としあきら)もこれを絶賛したと言われています。
さて、「政治家」としてこの様に先進的な思想を持って、幕政に影響を及ぼしていたのですが、泉石がここまで注目されている理由は「学者」として、また「コレクター」として、舶来の品々を多数(異常な程に)収集していたと言う事でしょう。
その分野は「洋書」・「地図」・「絵画」・「陶器」・「貨幣」・「織物」など多岐に渡り、「マニア」の域に達しています。
集める事が楽しかったから集めたんじゃないかと、そう思ってしまう位の…ある意味「変人」じゃないかと思う位の収集の仕方です。
博物館のパンフレットには「幕政に参与する藩主の補佐という立場から収集を行った」となっています。
個人的な見解ですが、最初はそういう目的で集めだしたのですが、色々な物を見ているうちに次から次に興味が湧いて、自分の興味がある物をどんどん集める様になったのではないかと思います。
その辺りは現代人の我々も理解し易く、なかなか素敵な人だと思います。
実務力もあり、優秀な人ですが、これにある意味「変人としての資質」(個人的な見解ですが)が加わった事で、後世にここまで名を残すようになったのだと思います。
何かを極めるにはそういう要素も必要なのかなと実感しています。
凄く勉強になりました。
また、これを積極的に世に広めようとしている「古河市」も頑張っているなぁと感じます。
博物館も結構立派でした。
機会があれば訪れてみる事をお勧めします。
JR宇都宮線 上野⇒古河60分―徒歩15分
東武日光線 浅草⇒新古河70分―徒歩25分
小山市 市街戦の弾痕が残る如来像と地蔵
上野駅からJR宇都宮線で約75分の栃木県小山市というところは、大鳥圭介率いる伝習隊と宇都宮藩を中心とした北関東諸藩が市街戦を繰り広げた事で有名な場所で、駅の周辺には当時の戦闘の激しさを物語る史跡が点在しています。
常光寺
駅から歩いて数分の常光寺には、台座に流れ弾による弾痕が残る阿弥陀如来像があります。
阿弥陀如来像
弾痕が残る台座
興法寺
こちらはも同様に駅から歩いて数分です。
弾痕の残る地蔵
バックリえぐれていますね。
小山宿脇本陣跡 明治天皇御駐輦之碑
この他にも、小山市の駅周辺には戊辰戦争戦死墓などの史跡が点在しており、徒歩でまわる事が出来ます。
先日、日帰りで古河と小山の史跡に行ってみたのですが、「な、何するんだ…」と思ってしまうような状況に出くわしました。
現場は栃木県小山市、「小山宿脇本陣跡」にある「明治天皇御駐輦之碑」です。
明治天皇が奥羽巡幸を行った時にここに立ち寄ったそうです。
また戊辰戦争の時に大鳥圭介なんかがここに本陣を置き、この周辺は激戦となりました。
他にも彦根藩士の戦死碑だとか、弾痕の残る阿弥陀如来像や地蔵が周辺の寺社に現存します。
その辺りの戊辰戦争絡みの史跡を見にいったんですが、ここが小山のスタート地点でした。
上の写真だとこれと言って変わったところもない様に見えますが、別の角度から撮るとこんな感じです。
これは立派なゴミ収集所ですよ…。
しかも、ネットが石碑を覆っていました。
その時は愕然として「な、何するんだ…」と心の中でつぶやき、少し萎えただけで終わってしまいましたが、後でなんであんな事になってるんだろうと、色々考えてしまいました。
小山市の史跡に対する考え方が気になりましたので、市の公式サイトを見てみますと「小山市内の文化財(史跡編)」というページがあるではないですか。
という事は、史跡の文化的な価値を広めようという意識はあるみたいですね。
このページに出ている史跡は、おそらくこういう扱いは受けていないだろうと思います。
もし、そこら辺の史跡の管理もひどい様なら、史跡に対しての意識が一律に低いだけだと思います。
一通り予定していた史跡を巡った後に感じたのは、小山市は戊辰戦争関連の史跡をあまり重要視していないという事です。
それはそれで、好きな人は自分で調べて行きますから構わないんですけどね。
ただ、調べて行った先がゴミ収集場になっていたら萎えるんですけど・・・。
その後、小山市立博物館にも行ってみる事にしました。
行って分かったのは、やっぱり小山市は戊辰戦争については、あまり宣伝する気はないという事ですか。
縄文時代の展示が多く、その辺の内容は充実していました。
一応小山市の歴史年表もあったのですが、戊辰戦争の記述は「大鳥圭介の軍と激戦」の一行だけでした。
別に幕末だけが歴史ではありませんし、小山市の歴史については全く詳しくありませんので何とも言えませんが、幕末好きの私としてはちょっとがっかりしました。
まぁ、幕末マニアのわがままですね。
ただ、幕末マニアの視点から見なくても、現在も日本の象徴である天皇の行幸碑を、あんな風に扱ってしまうのは、ちょっとどうなんだろうと思ったりもします。
そんな事よりも住民税を払っている市民の生活の利便性の方が重要なんだと、そう言われてしまえば、部外者の私は何も言う権利はないと思いますが。
それにしても、小山市には「教育委員会文化振興課」というセクションがあるのに、なぜ「史跡」である「明治天皇御駐輦之碑」を、ないがしろにしてしまうんだろうかと、そういう疑問が残ります。
政治思想が絡んでいたりするんでしょうか。