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井伊直弼の出自
井伊直弼(いいなおすけ)さんは日米修好通商条約を独断で締結し、それを非難する勢力を安政の大獄で粛清した事で独裁者、悪役のイメージが強い方です。
確か中学の教科書にも「こいつは悪い奴だ」的な事が書いてあった様に思います。
何が悪いって、そりゃ粛清弾圧で維新の志士をたくさん殺したからって事でしょうけどね。少なくとも20年ちょい前くらいの教科書ではそういう扱いでした。
まあ、明治維新後に歴史を書いたのは薩長側の人でしたし、安政の大獄ではいわば長州志士の大先生だった吉田松陰さんなんかも死罪になってますので、極悪人にされて然るべしだったのでしょう。
では本当にこの方はそんなに悪い人だったのか検証してみたいと思います。
まずは、この方の略歴ですが、1815年に11代彦根藩主の井伊直中の14男として生まれました。
彦根藩は徳川四天王と言われた井伊直政を藩祖とする35万石の日本有数の雄藩でした。2代目の井伊直孝がその基礎を作り、木綿の服を着るなど質素倹約を徹底したおかげで、藩の士風は質実剛健なものに変わって行った様です。
また、直弼さんの父である直中は殖産や農業改革などを行い、藩の運営も上手く行っていた様ですから、幕末の彦根藩は幕府にとっては非常に頼り甲斐のある味方だった事でしょう。
さて、直弼さんは14男って事で家督を継ぐ予定はありませんでした。それどころか、5歳の時に母を、17歳で父を亡くした直弼さんは、藩の余り者として家臣以下のわずか300俵という捨扶持で、城のはずれの屋敷で17歳から32歳までの不遇な青年期を過ごしています。
ちなみにその屋敷は埋木舎(当時松が47本あった事から)と言われておりまして、彦根城下に現存しているみたいです。
あの強権を振るった大老にこんな過去があったなんて意外ですよね。
どうでしょう、直弼さんこれで少しポイントアップでしょうか。
そんな境遇にもめげない直弼さんは、武術や学問、茶や禅などをせっせと学んでいたそうです。
因みに、後に居合では「新心新流」という流派を起こす程研究熱心でした。
長野主膳との出会い
さて、17年間の自己修練の時代に、直弼さんは長野主膳という本居流国学者と出会い、彼に師事します。
本居流国学というのは「古事記」や「日本書紀」、和歌などの日本古来の文学の研究をするというのが一般的でしたが、長野主膳はこれを生かして国家の有り方を説くというところまで踏み込んでいました。ここが他の国学者とは一味違うところですね。
主膳の思想は、「日本は天皇家が神の思し召しにより国家を統治する皇国であったが、幕府は天皇家により実質的な統治を全て任されているのである」と言う当時の封建制、幕藩体制を強化する物でした。
この思想が生きてくるのは直弼さんが正式な彦根藩の跡取になってからですけどね。
二人が出会ったのが直弼さん、主膳さんともに28歳でしたが非常に考え方が似通っており、ツーカーの仲になって行きます。
和歌や書物の解釈などを巡り三晩連続で語り合うなど、ちょっと気持ち悪いくらいの直弼さんの傾倒ぶりでした。
「先生、先生」みたいに…28歳の大の男は思えないような手紙が結構残っています。
それ位気があったという事ですね。
15年間こういった学問・武術・茶の道に深くはまり込む日々が続きます。
この間に直弼さんの兄弟達は、着々と他の大名家の養子になって行きます。
血筋としては井伊家は悪くありませんから、そういう話は結構あるんですね。
けれども、直弼さんはあまり人当たりが良くないと言うか、口下手で率直に物を言うタイプでしたので、養子縁組の面接ではあまり好印象を持たれず、縁組も進まなかったんです。
兄弟の仲では一番優秀だったんですけどね。
めんどくさそうな奴だと思われたんでしょう。
兄弟の中で一人取り残されてしまった直弼さんですが、この頃の彼の事を世捨て人の様であったと評価する方もいます。
ですが、実はそうでもなかったようです。
この辺りの直弼さんの心情がなかなか難しいところなんです。
禅道・武術などの業(わざ)を真摯に追及するところはまるで求道者のようですが、実際のところ直弼さんとしては迷いは常にあったものの、その業というのは自分の生まれを受け入れ、大名の庶子(跡取になれない子)として生きて行く為の業であったようです。
いわゆる武士としての禅道や茶道、学問の研究であり、これを生かして理想の武士になりたいと、そういった物であると思います。
この人は真面目で頭も良いので、当時は藩主になれる身分ではなかったのですが、藩の理想像などと絡めてそれらの業を自分なりに研究、改良していった様です。
ただし、迷いというのも抱いており、このまま庶子として生きるよりは仏門に入りたいなどと、周囲に漏らしたり寺に手紙を送ったりしています。
直弼さんは禅道も極めていますし、彦根藩の庶子達には寺の法嗣となっている人も多かったので、これも自然な流れだと思います。
実際に、年代は確かではないのですが、直弼さんが29歳くらいの頃でしょうか。
領内の長浜大通寺から直弼さんを法嗣として迎え入れたいという申し出がありました。
直弼さんは願ってもない機会と思い、この養子入寺を一旦は志願したんですが家臣に止められたんですね。
というのは、直弼さんの兄である12代藩主直亮(なおあき)には実子ななく、直亮と直弼さんとの間の兄弟、直元が藩主直亮の養子になっていたんですが、これまた直元にも実子がいないという状況だったからです。
なんだか複雑ですね。
それでもって、今度は直弼を更に直元の養子にするなんていう計画がかなり現実的に進行していたんです。
そいう言う訳で、この養子入寺の話は流れてしまいます。
転機、彦根藩世嗣へ
人生何が起こるか分からないもので、1846年1月、直弼さんは兄直元の急死により12代藩主直亮の世子となりました。
これは直弼さんにとっては思いもよらぬ出来事で、この境遇の変化に当初は戸惑っていたそうです。
数か月前に大通寺に入寺を志願し、それを井伊家の相続の可能性があった為に諦めたといういきさつがありましたが、兄直元に実子が生まれれば庶子のまま一生を終える可能性もあったのですから無理もありませんね。
これで直弼さんの前途は順風満帆かと思いきや、実はここからまた苦悩の人生が始まる事になるのです。
藩主直亮は仕方なく直弼さんを世子にしたのですが、昔から直弼さんとはあまり気が合わなかったようで、直弼さんを疎ましく思っていました。
この直亮も一風変わった人物で、藩主としては洋学者を登用したり、洋書を買い集めるなど開明的なところもありましたが、家臣からの評判はよくありませんでした。
これは実父であり、先代藩主であった直中も生前非常に心配していた事で、自分が死んだら開封して欲しいと、家老宛にこんな遺言状を残しています。
まず、冒頭では「嫡妻の子であった為、その性格や能力を考慮せず直亮に家督を譲ってしまった。」とあります。
そして、七ヶ条に渡って直亮の人格を憂いた理由を示しています。
1.勇気と決断力が乏しい
2.家来からの人望がない
3.怒りの感情を押さえられないほど、気性が激しい
4.隠し事をするなど、不誠実である
5.善悪の判断力が乏しい
6.言語が不明瞭である
7.親の忠告に耳を貸さない
とこんな感じですが・・・ちょっと痛々しい内容ですね。
これは、実父から見た評価ですからかなり信頼性のある評価だと思います。
全く他人の意見に耳を貸さない専制的な藩主であった様です。
自分が死んだらこれを見せて藩主を交代させて欲しいという内容だったのですが、当の直亮はこれを無視してしまいましたので、結局この遺言状は効力を発揮出来ませんでした。
さて、直亮がこういう人格でしたし、直弼さん自身も自分を「朴訥者」と評していましたので、直弼さんは直亮から疎まれてしまう訳ですね。
直弼さんは「朴訥者」ではありましたが、自分の能力を良くわきまえておりまして、直弼さんが手紙や直弼の発言などの記録を見る限りは非常に謙虚な物言いが多く見受けられるんですけどね。
おべっかなどを使わない人でしたから、嫌われる相手には徹底的に嫌われるような感じだったのでしょう。
直弼さんは大名の世嗣として江戸に駐在する事になるのですが、藩主直亮に度々苦しめられます。
例えばですが、徳川家斉の七回忌の法会で「御先立」という役を幕府から貰っていたのですが、直弼さんには衣冠がありませんでしたので新調しようとして、小納戸役(主君の雑用係)と掛け合うのですが、これが中々許可が下りません。
気心の知れた家臣を江戸に呼ぶことも自由には出来ませんでしたので、江戸の藩邸で直弼さんは半ば孤立していたようなんですね。
仕方なく、亡くなった兄直元の衣冠を使用するという事になったのですが、これがなかなか送られて来ません。
挙句の果てに法会まであと1ヶ月と迫った時に及んで、彦根にいた藩主直亮から、直元の衣冠を使用する事は藩の恥さらしになるという指摘を受け、結局どうにもならなくなり、疫病に掛かったと仮病を使い出仕を断念します。
実はこんな事が2回もあったんですね。
やはり、直亮は相当な変わり者だったようで、直弼さんは年中こういった気苦労をし続ける事になります。
しかし、悩みながらも兄を反面教師として、仁政を行う準備を怠らないところが直弼さんの偉いろころです。
これは禅道などの業(わざ)で培われた精神力でありましょうから、あの15年間はかなり直弼さんの人生に役立っているんですね。
そして、自分が藩主になった時に備えて、藩内の目ぼしい人材に手を付けて行くのです。
おおっぴらには出来ませんから、手紙のやりとりなどが多かったみたいですけどね。
彦根藩主としての直弼
1850年9月、12代彦根藩主直亮が国元で病没し、直弼さんはついに13代彦根藩主となりました。
ここで彦根藩の藩政運営システムを紹介します。
これがちょっと意外なんです。
まず、藩の政策決定の鍵を握るのは、実は藩主ではなく家老達です。
原則として、全ての政策決定は家老評議を経てから藩主の判断を仰ぐ事になります。
藩主が好き勝手に決める事は出来なかったんですね。
本来彦根藩にはこのような規定があったのですが、先代藩主の直亮は家老評議を重視せずに専制的な藩の運営を行っていました。
家老には藩主に意見し、時には藩主を諌める(いさめる)義務があったのですが、直亮の重用していた家老達はこれを怠り、万事直亮の意向通りに事を進めており、当時世子であった直弼さんは、彼らを無策・無能と痛烈に批判しています。
これはどちらかと言えば藩主の方が責任が重いでしょうけどね。
良くある具合の悪い会社みたいですね。
さて、藩主となった直弼さんは、直亮の治世を反面教師として藩の改革に取り組みます。
まず手始めに、直亮時代の無能な重役・側近達を不忠の士として、隠居・左遷を行います。
一方で藩政運営の方針として8ヶ条の御書付を家中に提出しました。
これには、井伊家代々の規則通りに皆で協力し合って藩政に取り組む事、飛び抜けた才能を持つ者がいれば重用する事、文武や家芸熱心な者は昇格や褒賞の対象にする事などが盛り込まれています。
改革というよりも代々上手くやって来た方法にちゃんと戻そうとする保守的な考えなんですね。
藩政に対する考え方も、幕府に対する考え方も、古き良き時代の井伊家のやり方に戻そうという発想なんです。
要は幕府強化=封建制の絶対死守ってことが根底にあるんですが、封建制だと血筋でトップが決まってきますから、愚鈍な者がトップに立った場合でも藩政が上手く行くように家老評議って物を機能させておく必要があったんですね。
因みに、この辺りの直弼さんの考え方は、大老になってからもあまり変化はありません。
封建領主の子として生まれて、元来生真面目な性格でもありましたし、当時で言うところの模範的な業(わざ)の数々を極めて来たのですから、こういった考え方になるのは必然ではないかと思います。
直弼さんは天才肌ではなく、いわば秀才なんですね。
こういう事がこの時代の人物を語る上では、非常に重要だと思います。
直弼さんは「彦根藩主」の子として生まれたがゆえに、「彦根藩主」として幕府に対する責任感を持てば持つほど、結果として時代の流れに逆らう事になるんですね。
彦根藩は代々大老を出す家柄であり、幕府の信頼も厚く、幕府への発言力も大きいものがあり、生真面目で責任感の強い直弼さんは、この「彦根藩主」としての役割をまっとうする事が自分の役目だと強く考えるようになって行きます。
社会的地位の高い幕府側の家柄の人と言うのは、優秀で忠義に厚く、実直な者ほどドツボにはまって行く状況だったと言えるでしょう。
これは会津藩主、松平容保も同様だと思います。
奇人・変人の類か、天才でなければあの難しい局面は切り抜けられなかったと言う事です。
ちなみに、15代将軍の徳川慶喜が奇人・変人の類か、天才にあたると個人的には考えます。
さて、話を戻しますが、直弼さんは藩主として合計9回も全領内を巡検します。
過去に彦根藩主が行ってきた巡検は、統治する領土を確認するというだけのものですが、直弼さんは巡検範囲を広げ、間接的に領民らと接触しながら、模範的な者には褒賞を与えるなど、士民(武士と領民)を一体化させる事を意識していました。
また、藩校弘道館の改革を行い、藩士の教育レベルを向上させます。
人材登用の面では、国学者の長野主膳を正式に彦根藩士として登用し、宇津木六之丞や中川禄郎、三浦安庸など、世子時代から目を付けていた者達を重用して行きます。
こうして直弼さんは藩主としての足場を固めならが、仁政を行って行くのです。
幕政への参画
1850年に直弼さんがが彦根藩主になってから、1858年に大老になるまでは「溜詰」(たまりづめ)として幕府と関わって行く事になります。
「溜詰」と言うのは、大名の格付けを表すもので、江戸城では将軍に謁見する際の控室の種類が、大名の家格によって細かく分けられていました。
徳川一門と家格の高い譜代大名の控室が「溜間」(たまりのま)と呼ばれており、この部屋に詰める大名を「溜詰」と言います。
また、この「溜詰」の中にも更に格付けの差があり、代々これを許されていたのが彦根藩井伊家・会津藩松平家・高松藩松平家の3家のみでした。
この3家は「常溜」(じょうだまり)と呼ばれ、その時々の政情により、幕府の特命を受けて溜詰となる藩は「飛溜」(とびだまり)と呼ばれます。
この他にも老中経験者が一代限り溜詰を許される「溜詰格」などがありました。
この複雑さは「The 封建制度」みたいな感じですね。
こういうのをしっかりさせていたので、徳川幕府は長く続いたんだと思います。
ちなみに、会津・高松は親藩でしたので彦根藩は譜代の筆頭という事になりますね。
ですから、直弼さんは幕府に対する責任感を人一倍強く持っていました。
ペリーが浦賀にやって来たのは1853年でしたから、直弼さんは溜詰としてこの事態を迎える訳です。
当時直弼さんは国許への暇(いとま)を得て、江戸から彦根に到着したばかりでした。
幕府はペリーの国書の写しを家格の高い大名に示し、意見書を提出するように求めます。
さて、こういった事態になり直弼さんは、藩の規則通りに家臣たちに意見書の提出を求めました。
この意見書が彦根博物館に残っているのですが、様々な意見が出ており、鎖国・攘夷の徹底を訴える者もいましたが、その多くは交易を拒絶する事を前提に軍備を整え、陸戦に備えるという物でした。
ただ一人、直弼の腹心であった藩の儒学者中川緑郎という人が、「打ち払いは不可能であるから一時的に開国し、外国の技術を取り入れて軍備を整えてから攘夷を行うべし」という意見書を提出しています。
この人は儒学者ではありましたが、諸国へ遊学を行い、長崎では蘭学者と交流をもっていましたので西洋事情には明るく、彦根藩内では開明的な人でした。
最終的に直弼さんはこの中川の意見を採用し、幕府に意見書として提出しています。
ちなみに他の大名たちから提出された意見書は、溜詰・大広間・大廊下の31家の中では通商を肯定したのは彦根藩・佐倉藩・福岡藩の3家のみで、老中を含む帝鑑間(ていかんのま)大名の5家のうち、4家は主戦論・拒絶論でしたので、井伊家は当時の格式の高い大名の中では先進的であったと言えますし、この辺りは直弼さんの藩政(人材登用・教育面)が上手く機能していたという事だと思います。
結局幕府はほぼこの方針通りに対外姿勢を決めるようになる訳ですね。
しかし、この一件から幕府の方針を巡り、水戸の藩主の父、徳川斉昭と直弼さんは対立するようになります。
先代の直亮が藩主の時には、直亮が斉昭の好物であった牛肉を水戸に送るなど、彦根藩と水戸藩は良好な関係だったのですが、ペリーの再来航の時に開かれた幕府評議の場で、斉昭が「外国船の断固たる打ち払い」を主張、直弼さんは「交易許可」を主張します。
他の溜詰大名もほとんどが「打ち払いは不可」との見解を示した為、斉昭が列席した一同から反対にあったという事になります。
ここから幕府の海外政策と将軍継嗣の問題が複雑に絡み合い、幕府権力をめぐる混迷の時代に突入して行く事になります。
大老への道
さて、徳川幕府が抱えていた難問「将軍継嗣問題」ですが、ペリー来航以来紀伊の徳川慶福を推す保守派と、水戸藩徳川斉昭の子である一橋慶喜を推す改革派で意見が分かれ、両者の対立は深まって行きます。
保守派である直弼さんの見解としては、「そもそも将軍継嗣というのは従来通りに血統を重視すべきものであり、将軍個人の能力は問うべきではい。
将軍の能力が足りなかったとしても、それを補うのが臣下の役目である。
また、最も優先すべきなのは、13代将軍家定の意向であり、臣下の者たちがとやかく言うのは筋違いである。」といったものです。
家定は紀伊の慶福を推していましたのでこれに従う訳ですね。
以前に述べた国学などの影響で、直弼さんは封建制度、つまりは幕府権力の強化という事を第一に考え、これにより難局に当たって行こうという考え方でした。
儒教の考え方だと、君主は善政を行う義務があり、これを怠る君主は倒されるべきとなります。
直弼さんは、もちろん藩政においては儒教の考え方を取り入れて善政を行うわけですが、長野主膳の国学の影響を強く受けていますので、天皇と幕府、諸藩の関係性というものについては絶対不変のものであるという考えなんですね。
これを崩すと封建制度つまり、幕府の支配を揺るがす事になるという事です。
身分制度についても、直弼さんはあれほど信頼していた長野主膳ですら、いきなり重用した訳ではありません。
藩主になった時に平藩士で召し抱え、その後徐々に役職を上げています。
この様に封建制度の土台を揺るがすような事はやらない訳です。
この点については、直弼さんの死後に幕府がどうなっていったかを考えると、的を得ている理論であったと思います。
これを保守的な考え方だと言ってしまえば簡単ですが、直弼さんの死を契機にして幕府の支配がゆらぎ、そして封建制度自体が無くなってしまう訳ですから、直弼さんはいわば「封建制度の最後の番人」という表現が個人的にはピッタリだと思います。
この時期に、近い未来に版籍奉還や廃藩置県などが行われる、などど想像していた藩主はどれだけいたでしょうか?
直弼さんもそこまでは考えていないと思いますが、結果としてテロ行為により「封建制度の最後の番人」が倒された事で、後の世に殿様が殿様でなくなり、家来も家来で無くなってしまった訳です。
話を最初に戻しますが、徳川斉昭、松平慶永などの改革派はこの難局に当たるには能力が高く、人望がある者が将軍になるべきであるという主張でした。
それで一橋慶喜を推す訳ですね。
こちらの考え方の方が現代的(儒教的なんですが)で我々にとっては受け入れやすい考え方だと思います。
また、ああいう緊急時の対応としては、老中によるの合議で政策が決定されるよりも、優秀な将軍の専制的な政策決定方法の方が適しているとも考えられます。
ですから、幕府の支配にこだわらず、今後の日本国をどう改革していくかという観点から捉えると、改革派の主張の方が現実に即していたという風にも考えられますね。
ただ、実際のところこの改革派の人達は、雄藩大名の後押しを得て推薦を行っていますので、幕府内では優秀な将軍が専制的な運営を行ったとしても、幕府と諸藩との関係性を考えた場合、政策の決定方法としては諸藩との合議という形になります。
この2つの派閥の方向性を簡単にまとめると
保守派:幕府内部では合議による政策決定だが、国内でとらえると幕府の専制。
改革派:幕府内部では専制による政策決定だが、国内でとらえると幕藩の合議。
このようになると思います。
最終的に明治政府はどうなったかというと、政府内部での権力闘争を経て、大久保利通とその取り巻き達による専制的な政策の決定という方向で進んでいますし、あの当時はその小回りの効く運営方法の方が日本が飛躍する為には向いていたと私は考えます。
ですから、保守派・改革派ともに当時の情勢を考えると、簡単にどっちが優れていたなどと言えない気がします。
そういった難しい局面に置かれて、直弼さんは将軍継嗣問題の切り札として大老に選ばれる訳です。
将軍継嗣と外交での対立
1858年4月23日、幕府保守派の後押しを受けて、直弼さんは大老となります。
幕府がハリスとの日米修好通商条約の勅許を得る為に、老中の堀田正睦を上洛させ、それが失敗に終わった直後の事です。
この前後に外交問題と将軍継嗣問題の絡みで色々な事が起きていますので、ここで一度当時の状況を整理してみましょう。
外交問題・将軍継嗣問題と二つの大きな問題がありましたので、各勢力のこれに関する姿勢を表にしてみます。
保守派の勢力
1.外交問題については一時的な開国を行い、軍備を整えた後に鎖国を行う。
2.将軍継嗣については、家定の意向に従い紀伊の徳川慶福を推す。
両問題とも、見解は共通しています。
改革派の勢力
1.外交問題については攘夷、消極的な開国、積極的な開国(外国と交流を深め、取り入れるべき物は取り入れ、海外に打って出る)に分かれている。
2.将軍継嗣については、斉昭の働き掛けで一橋慶喜を推す。
政策面での見解に相違があり、将軍継嗣の問題のみ共通しています。
水戸の徳川斉昭が、子である慶喜を将軍にして、それにより自らの幕府への影響力を強める為に諸侯や朝廷に働きかけ、この様な図式になっています。
堀田正睦の上洛に際し、斉昭は朝廷に幕府の外交状況を頻繁に報告していました。
これにより、朝廷内部は攘夷派が大勢を占めており、このまま条約を幕府の一存で結ばせたくはないとする攘夷派が、幕府の頼みの綱である九条関白を抑え込んでしまう結果となりました。
そこで下った勅命というのが「諸侯の意見を集めてから判断する」という内容だったんですね。
こういういきさつで堀田正睦は条約調印の勅許を得る事に失敗した訳です。
多分ここが幕末の歴史のなかで一番複雑で分かりにくく、見解が分かれるところではないかと思います。
慶喜を将軍に推す人の思惑が、それぞれ違いましたから、改革派と言っても政策が一致しないんですよね。
こんな状況で直弼さんは大老になった訳ですが、まず将軍継嗣問題については将軍、老中の意見は一致していましたので、幕府の一存で紀伊の徳川慶福に決定します。
そして外交問題については、超開国派の幕府の外交官である岩瀬忠震が、諸侯の意見を集める前に止むを得ない状況であるとして条約に調印してしまいます。
これは直弼さんが事前に、「やむを得ない場合は調印の許可をくれ」という申請を承諾してしまった事が原因です。
詳しくはこちらをご参照下さい。
この勅命に従わない調印に孝明天皇や公卿達が非常に腹を立て、朝廷と幕府の関係は最悪の状態になってしまします。
直弼さんはのっけから絶体絶命のピンチに陥る訳です。
安政の大獄への道
幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約に調印した事により、孝明天皇が憤激して譲位をほのめかすようになります。
この辺りの事実関係はいくつかの資料でも同様になっていますので、孝明天皇は相当強く攘夷へのこだわりを持っていたという事になります。
だたし、あくまでも具体的に日本と外国の戦力を把握していた訳ではなく、これといった策があった訳でもありません。
孝明天皇がそこまで攘夷にこだわった理由というのは、家近良樹氏著の「孝明天皇と一会桑」によれば、自分が決断してしまう事により、外国人が日本を好き勝手に引っかきまして国を乱すような事になったら困る、というもので自分の代でそういう事にはしたくなっかったからだという事になっています。
幕府が和親条約の時の事後報告のような対応を行っていれば、ここまで問題がこじれる事もなかったでしょうし、孝明天皇自身もこれほど悩まずに済んだかもしれませんね。
そもそも幕府には政治全般の権限が朝廷から委任されており、それまでは重要事項の決定の際でも、事後承諾という形がとられていましたので、今回も勅許を得る必要が必ずしもあった訳ではありません。
京都の情勢を正確に把握していなかった幕府の老中達が、簡単に勅許が下りるだろうと判断を見誤って堀田を上洛させたのが原因だと言われています。
とにかく孝明天皇の攘夷の意志は強い物でした。
結局、孝明天皇は高位の公家達の意見を聞き、幕府の違勅に対する詰問を行う事で譲位を思いとどまる事になるのですが、これがまた大問題に繋がって行きます。
この勅書は、幕府の無断調印に対して幕府・尾張・水戸を叱責しており、また、幕府は諸侯と評議して政治をやるように、諸侯は幕府を助けるようにと、そういった内容でした。
この勅書が幕府と水戸藩に下される訳です。
この内容自体は大して問題になる程の事でもなかったのですが、ここで反幕・攘夷派の公家達の策により、幕府より二日先に水戸藩に勅書が届いてしまうんです。
さらに、この勅書と合わせて、朝廷から別紙で「格別に信頼のある水戸藩が中心になって諸侯をまとめ、幕府をバックアップするように」というような添え書きが送られていましたので、これが大問題となるんですね。
朝廷が、幕府に政権を全面的に委任しているという原則を否定する事にもなり兼ねない事件です。
だたでさえ、将軍継嗣問題が絡んで幕府と水戸藩との確執はが深まっていましたので、「朝廷が幕府と対立している水戸藩を支持している」と受け取れる勅書が水戸藩に先に下りた事で、幕府内は大騒ぎとなり、また過激派の多い水戸藩の士気も大いに盛り上がる事になります。
これは「水戸密勅」といわれ、以前から水戸の徳川斉昭が京都で攘夷派の公家達を抱き込んだり、将軍継嗣と勅許なしの条約調印を巡り、江戸城に押しかけ登城を行い、直弼さんを糾弾したりと、ややこしい事になっている時に、この勅書が引き金になって後の安政の大獄に繋がって行く事になります。
安政の大獄の幕開け
前述の「水戸密勅」を重く見た直弼さんは、京都での幕府権力回復を目論み、警察力を使って政敵を排除しようと考えます。
幕府にあって朝廷に無い物が武力でしたから、これを行使すれば簡単に朝廷を抑える事が出来たからです。
京都では、直弼さんの腹心であった長野主膳が影の権力者となり、幕府老中や幕府役人達を上手く動かし、政敵の逮捕の中心的な役割を担って行きます。
1858年9月7日、安政の大獄は攘夷・反幕を唱える、浪人儒者の梅田雲浜(うめだ うんびん)の逮捕から始まりました。
9月18日には「水戸密勅」を工作した水戸藩の鵜飼吉左衛門が逮捕されます。
また、江戸でも9月17日に三条家の家士、飯泉喜内が逮捕され、ここから反幕の三条・近衛・鷹司家の家士・大夫らがバタバタ逮捕されて行きます。
これが反幕公家達に恐怖感を与え、彼らは慌てふためきました。
この武力を背景とした圧力により、朝廷では親幕派の九条家が力を取り戻す事になります。
さて、この武力行使については賛否両論あると思いますが、私なりの考えを述べておきます。
それまでの京都朝廷への裏工作で、幕府が改革勢力に遅れを取った為に「水戸密勅」が引き起こされた訳ですし、正面から話し合っても埒があかない状況でした。
ここまで逼迫した状況下で、幕権強化を第一に考えるのであれば、警察力を使うという発想はごく自然だと思います。
この武力行使から、血なまぐさい暴力による報復の連鎖が始まりましたから、その引き金を中心となって引いたのは直弼さんだと考えられます。
後世の人から見れば「これは愚行であった」とか、「もっと平和的に解決する方法があった」とか、そういう事も言えるでしょう。
また、歴史学者の方であるとか評論家の方は、そういう分析をする必要があると思います。
何故かというと、そういった分析によって「こういった事態にはこう対処すべき」など、歴史から学ぶ教訓が生まれるからです。
ただし、だからと言って「直弼さんが政治的に無能であった」とか、「高慢であった」とか、「専制的であった」と評価するのはどうかと思います。
井伊家の歴史、徳川幕府の歴史と、直弼さんの出自を考えると、必然的に選択肢の幅は狭まります。
直弼さんが「無能」・「高慢」・「専制的」ではなかったというのは、前回までに説明した通りです。
加えて当時の幕府の置かれた状況が、直弼さんの様な人を必要としていた訳です。
ですから、直弼さんは時代によって表舞台に引き出されて、その役割を忠実に全うした人と言えると思うんですね。
安政の大獄の処罰者と量刑
直弼さんと長野主膳の主導で行われた安政の大獄の目的は、一言で表現すれば「政敵の排除」です。
将軍継嗣問題で対立していた一橋派の藩主・藩士・幕臣・公卿がその処罰の対象となっています。
幕府は警察力による圧力に物を言わせ、一橋派公卿の処罰を朝廷、特に九条関白に求めます。
また、先に述べ逮捕者だけでなく、一橋派の藩主や、幕臣にも処罰を行いました。
その処罰は江戸幕府開府以来、例がない程広範囲に渡り、刑も非常に重かったとされています。
処罰された主要な人物を表にまとめるとこうなります。
安政の大獄の処罰者は69人にのぼり、そのうち極刑が8人に及んだとされています。
逮捕者の量刑を決める前に、直弼さんは取り調べを担当する五手掛の人事を見直し、非常に厳しい態度で取り調べに臨んでいます。
そして、直弼さんの意向により、評定所が出してきた量刑よりも更に重い刑が課されたという説が一般的になっています。
これが「井伊直弼批判論」の理由の一つになっている事が多いのですよね。
安政の大獄で自らも処罰され、右腕の橋本左内を処刑された松平慶永の記した「逸事史補」に、「量刑を記した書類を直弼さんが預かり、後日それに更に思い量刑が書かれた附札が添付されて来た」という記述があり、それが根拠になって直弼さんが独断で刑を更に重くしたとなる訳です。
しかしながら、母利美和氏はこれに反論されています。
当時の老中評議内での直弼さんの権限はそれ程絶対的な物ではなく、老中評議が幕府の意思決定の最高機関であったという説を主張されているのですが、その根拠となるのは以下の通りです。
1.この安政の大獄での逮捕者に対する取り調べの2~3ヶ月前に直弼さんは「老中の間部詮勝が自分の悪口を言いふらしており、同じく老中の太田資始も間部と結託し、何事も自分の知らない間に決まってしまう、退役を願いたいが不本意である」という書状を老中・松平乗全宛に送っている事。
2.上の書状の内容が長野主膳に伝わり、主膳は京都所司代・酒井忠義の「太田・間部との確執にとらわれずに、幕政参与の田安家徳川慶頼に相談し、大老の考え通りに事を進めて欲しい」という伝言を書状で伝えている事。
3.長野主膳の意見は「孝明天皇の皇子・皇女と田安家の間に婚姻関係が成立すれば、田安家徳川慶頼は格別の昇進になり、そうなれば田安家徳川慶頼と大老との意見一致による、老中評議に対しての優先決定権が1つや2つ認められる事もあるのではないか」という内容だったという事。
4.量刑が修正された附札は現存しており、この筆跡が直弼さんの物ではない事。
どうでしょう、私はなかなか説得力がある説だと思います。
松平慶永という人物は、安政の大獄の被害者です。
その被害者の視点から直弼さんを語っているという面もありますので、個人的な恨みも多少はあった事でしょう。
また、「実際にどういう過程でその附札が書かれたか」という事を証明する史料が発見されていない、という事も大きなポイントだと思います。
こうなれば、客観的に史実の可能性が高いと思われる事項から判断するべきですよね。
上記の直弼さん・主膳の書状というのは、当時の幕府の意思決定の状況を判断するには、非常に信憑性の高い物だと思います。
ですから、安政の大獄における刑の決定は、「直弼さんの独断」ではなく、「幕府の正規の意思決定の手順を踏んだ総意である」と見るべきではないでしょうか。
将軍継嗣に関する一橋派の行動が、「幕府存続に関わる程重要な問題だった」と言うのが幕府の総意であったでしょうし、これが「幕府の存続に関わる」という部分は間違っていないと思います。
「桜田門外の変」の予兆
「安政の大獄」以降、水戸藩では斉昭派(尊攘激派)の「天狗党」と藩主慶篤派(幕府協調派)の間で対立が続きます。
この頃、幕府には「慶篤派の者達は直弼さんを賞賛しているが、斉昭派の「天狗党」の者達が直弼さんを恨み、大老暗殺を企てているという噂がある」という旨の探索書が届けられているんですね。
幕府は水戸藩に弾圧を加え、この「天狗党」の動きは一時は沈静化に向かい、事態はここで一段落したかと思われました。
しかし、1859年12月に幕府が「安政の大獄」のきっかけとなった「水戸密勅」を朝廷に返納する事を水戸藩に命じます。
あれほど幕府が重要視していた問題の密勅ですから、当然と言えば当然でしょう。
水戸藩ではこれを巡って大論争が巻き起こりますが、藩主慶篤は既に幕府に全面的に恭順の姿勢を見せていますで、大勢としては返納止むなしと言う事になります。
ところが、上層部の方針としては返納に固まったものの、これに納得しない下級藩士を中心とした「天狗党」の圧力により返納は阻止されてしまいました。
翌1860年2月に事態が動きます。
謹慎中の斉昭自らが事態を重く見て密勅の返納を求める諭書を出したのです。
これにより「天狗党」は後ろ盾を失い、幕府と水戸藩の両方から追い詰められる事になってしまいます。
「天狗党」としては、自らの信じる正義を貫く為にはテロによる実力行使を行うしか道は無くなります。
そして彼らは脱藩し、大老暗殺への道へと向かう訳です。
この辺りを見ていると、「桜田門外の変」は起こるべくして起こった事件と言わざるを得ませんね。
「安政の大獄」も然りです。
水戸藩の歴史が生み出した徳川斉昭、彦根藩の歴史が生み出した直弼さん、この二人が幕末前期の主役ではないかと思うのですが、この方たちは己が藩に代々根付く思想や文化から逸脱した考え方を持っていた訳ではないでしょう。
斉昭としては水戸学の勤皇思想や、水戸藩が代々将軍を出さない家柄であった、水戸藩は幕府を補佐する役目を担ってきた家柄であった事など、水戸藩の歴史全般から影響を受けてああいった権力欲を持ったのだと思います。
そこ出した答えが、将軍継嗣については一橋慶喜、外交問題は攘夷となった訳ですが、これは2代藩主光圀の時から水戸藩が辿ってきた歴史を考えれば必然ではないかと思えてなりません。
また、直弼さんについても徳川四天王と言われた井伊家の歴史を考えれば、ああいった人生を歩むのも頷けます。
これが歴史の面白いところではないでしょうか。
特に封建制度という枠組みの中では、個人というよりもその家柄が代々固定された役割を持っていました。
幕末に活躍していた人達を語ろうとするのであれば、何百年も遡ってその家柄を見て行かなければ、その人の生い立ち、人となりは中々理解出来ないのかも知れませんね。
永きに渡る歴史に導かれ、この国家の大事の時に斉昭と直弼さんは、それぞれ自分の持てる限りの力を出し切って、ぶつかり合い、それが「安政の大獄」「桜田門外の変」に繋がって行ったんだと思います。
桜田門外の変
1860年3月3日の節句の日、直弼さんは駕籠に乗り、総勢60名を随行させて外桜田の藩邸を江戸城に向けて出発しました。
行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を過ぎた辺りで、大名の登城を見物する振りをしていた水戸藩激派と薩摩藩士に襲撃されます。
この日は雪が降っていましたので、彦根藩士達は雨合羽を着ており、刀には雪が入るのを防止する為に柄袋をつけていました。
この為、不意を突かれた彦根藩士達は刀を抜くのに手間取り、散々に斬りたてられてしまいます。
そして藩士達の防戦空しく、直弼さんは駕籠の外から銃で狙撃され、動けなくなったところに白刃を突き立てられます。
幕末前期を大いに揺るがせた巨星が墜ちた瞬間です。
さて、この襲撃事件の少し前には、水戸藩激派の不穏な動きがある程度幕府側に察知されていたと言います。
そこで湧いてくる疑問が、何故その様な非常時の状況下で、かくも容易に暗殺が成功してしまったかと言う事です。
僅かな距離しかない彦根藩邸から江戸城、その登城途中で襲撃するなどとは、彦根藩側には考えもよらなかったのか。
それも可能性の一つではあると思います。
ただ、襲撃の可能性を予測はしていても、封建制度の格式を重んじる直弼さんは登城の際に別段の警護を付けた訳では無いとする説もある様です。
つまり、封建制度の格式を崩してまで我が身を守る事はよしとせず、と言ったところだと思います。
これは潔いとも受け取る事が出来ますが、私は少し違った見方をしています。
私の捉えた井伊直弼像というのは「封建制度の維持に生涯を捧げた朴訥な仁君」というのがしっくり来ます。
あくまでも封建制度の枠組みから逸脱せず、頑なに徳川家に忠誠を誓い続けた直弼さんは、封建制度の枠組みから逸脱した方法でこれを守る事は考えてはいなかった様です。
そこまでしなければ幕府を守れないのであれば、それは守れなくても仕方がない事であると考えていたのでしょうか。
潔いというよりも、ある意味自分の生の役割というものに対して達観視していたのではないかと思います。
直弼さんの死を契機に、時代は急激に流れを反対方向へと変えて行きます。
幕末という時代に井伊家に生まれ、尊攘派のマグマが噴き出さんとする火口に大岩の様に立ちふさがり、圧力を加えられたマグマはより強大な力を蓄える事になりました。
そしてその力が臨界点に達した時に、大岩は粉々に打ち砕かれ、時代が大きく変わっていったという見方をすると、直弼さんの存在は逆に明治維新の実現時期を早めたのではないかとも考えられます。
幼少時代からの数奇な運命と、時代に与えられた大きな役割を考えると、井伊直弼という人物はもっと現代で脚光を浴びるべき人物ではないかと私は考えます。
派手さが無いが故に、ドラマで主役として取り上げられる事がないというのが残念でなりませんが、いつか脚光を浴びる日が来る事を願っております。