こちらの本に興味深い記事がありました。
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現在の秋田県にあった久保田藩と仙台藩の間で、戊辰戦争時に起こった出来事が火種になり、現代でも遺恨が残っているとしています。
そのいきさつは次の通りです。
両藩とも列藩同盟に加入していたのですが、久保田藩領内に薩摩・長州などの軍隊が入り込み、使者を使って新政府側に寝返るように圧力を掛けてきます。
首根っこを押さえられて、久保田藩の藩論はグラグラ揺れます。
これに対して、列藩同盟の盟主であった仙台藩は、10人余りの藩士を久保田藩に派遣し、こちらも武力をチラつかせて寝返らないように圧力を掛けてくるんですね。
両軍の板挟みになり、藩内で緊急会議が開かれるのですが、最終的には領内に新政府軍が入り込んでいた事が決め手となり、列藩同盟を離脱する事になります。
この後に事件が起きるのですが、薩摩藩の参謀、大山格之介が久保田藩の若い藩士達をそそのかします。
「仙台藩の使者は、実は刺客である」と吹き込み、彼らはそれを信じて仙台藩の使者達を斬り殺し、首を城下に晒してしまうんです。
これに猛烈に怒った仙台藩は、久保田藩に兵を送り、列藩同盟は瓦解の道を辿る訳です。
この時から現代に到るまで、まだ両者のわだかまりが残っているのだそうです。
10年位前に、秋田県角館市で「戊辰戦争百三十年in角館」というイベントがあったそうなのですが、座談会で各市の市長が集まる事になり、その席上で当時の白石市長が「戊辰戦争に破れたのは秋田の裏切のせいであり、それが無ければ我々同盟軍が勝利していた」というような事を発言されたそうです。
これに対して、当時の秋田市長は「我々は間違っていない。正しい選択をした」と反論されて、会場が騒然としたそうです。
両市長ともに現職ではない事をお断りしておきます。
さて、この件に関して山形県出身の父と、佐賀県出身の母を持ち、神奈川で生まれ埼玉で育った私に、コメントする資格があるかどうかという問題もありますが、同じ日本人として考えた事を少し述べます。
両市共に、故郷の歴史に対して強い誇りを持っておられ、そう言った姿勢については非常に尊敬しています。
白石市の立場からすれば、秋田の裏切りのせいで敗北が決定的になり、朝敵藩として辛酸を舐めさせられてきた、という想いがあると思います。
仮に裏切りがなかったとしても結果は変らなかったかも知れませんが、秋田の裏切があった事は歴史上紛れも無い事実です。
ですから、これを忘れるのではなく、どうやって受け入れるのかという問題なのだと思います。
少なくとも、戊辰戦争で命を落して行った人達は、今は仇討ちを望んではいないと思います。
もし、死んだ人には意思はない、というスタンスから見るのであっても、現代の日本で、両市がいがみ合う事にマイナスの要素はあっても、プラスの要素はないと思います。
久保田藩の立場としては、当初は会津の救済措置が目的であったのが、仙台藩士による新政府軍の参謀・世良修蔵殺害により平和的解決の道が閉ざされてしまった訳ですし、戊辰戦争の開戦当初から各藩の立場も考え方も違っていたのですから、そういった裏切りが起きてしまったのも仕方ないと思います。
秋田県としては、こういう歴史には蓋をしてしまいたいところでしょうが、逆に久保田藩が当時置かれていた状況を更に研究し、なぜそういう選択をしたのかという事を、もっと世に知らしめる事が重要なのではないかと思うのです。
お互いがお互いの立場を理解し合えたところで「歴史から学べる教訓」が生れるのではないかと思います。