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幕末スポット好きなら一度は行くべき会津若松
会津若松市は福島県の中通り、中央北部の町ですが、その歴史は古く、中世の蘆名氏、伊達氏の支配を経て、江戸時代には二代将軍「徳川秀忠」の四男として産まれた「保科正之」を祖とする会津藩の藩都として肥沃な農地を背景に、幕末まで約250年間に渡って栄えてきました。
NHKの大河ドラマでも度々その歴史がクローズアップされ、白虎隊や新撰組の土方歳三や斉藤一、新島八重などにまつわる様々な逸話が残された土地です。
戊辰戦争の中でも最も激戦となった会津戦争の舞台でもあり、幕末スポットが好きな人ならば一度は訪れたい史跡が点在する、最も魅力的な町と言えるでしょう。
最低限押さえておきたい会津若松の幕末史
会津若松に観光で訪れる人は史跡探訪が主な目的だと思いますので、幕末史の簡単な流れは是非押さえておきたいところです。
一般的に学校で教わる歴史はその良し悪しは別として、戊辰戦争の勝者、即ち薩摩・長州・土佐・肥後を中心とした明治政府側の都合の良い様に書き換えられていますので、幕府側に付いた会津藩や仙台藩、長岡藩の立場から見た戊辰戦争を知って置くことがポイントになります。
日本はペリーの来航から本格的な幕末の動乱を迎えますが、戊辰戦争の終結まで会津藩は一貫して幕府を支える最大の有力藩として大きな役割を果たしました。
会津藩が幕府を献身的支えた理由
藩祖の保科正之自身が将軍家に恩を感じて尽くした人だった
保科正之は二代将軍「徳川秀忠」の四男として認知はされているものの、秀忠が側室ですらない身分の低い女性に産ませた子で、所謂落胤でした。
本来であれば藩主になれる身分ではなかったのですが、異母兄弟である三代将軍「徳川家光」の厚意で会津藩を与えられます。
正行は家光がもっとも信頼する家臣となり、将軍家に恩を返すべく忠義を尽くしました。
そして幕府に忠義を尽くす事を藩訓と定め、代々の藩主がその藩訓に従う事になります。
最後の藩主 松平容保は聡明で孝明天皇の信頼が厚かった
松平容保は徳川御三家、尾張藩の支藩である高須藩松平家出身で、12歳の時に会津藩の8代藩主である松平容敬の養子となりました。
養父の容敬が病弱で40代半ばで死没した為、16歳という若さで大藩、会津の9代藩主となりますが、幼少の頃から儒学の英才教育を受けていた事もあり、会津藩の藩訓を誰よりも重要視した人でありました。
日本の国体と言うものは天皇家の賢威により成り立ち、徳川将軍家は最高権威者である天皇の政権委任を受けているからこそ、正当な政権運営者であるとみなされるのが常識でした。
特に容保が藩主となった時の天皇は、幕府に厚い信頼を置いていた「孝明天皇」でしたので、天皇家にも徳川家にも忠勤を尽くす容保は、孝明天皇にとっても最も信頼のおける人物だったと言われています。
家臣の反対を押し切って京都守護職に
京都では、尊皇攘夷派の志士達による暗殺が横行し、治安が極端に悪くなりましたが、志士らを抑えて京都の治安を回復させる為に容保は京都守護職の任に就くことになりました。
大量の会津藩兵を率いて京都の治安に当たる事は藩の財政を圧迫し、西郷頼母などの重臣がこれに強く反対しますが、最終的に容保は藩訓に従い、その任を受ける決意をします。
会津藩兵や新撰組を使って志士らを殲滅
新撰組による池田屋の襲撃により、多数の死者を出した長州側の志士達は、更に蛤御門の変でも会津や薩摩を中心とした治安部隊に散々に蹴散らされ敗走します。
こられの治安維持行為が長州志士らの根深い恨みを買い、後の苛烈な会津戦争に繋がって行きます。
鳥羽・伏見の戦いで充分な戦力を残しながら敗走を余儀なくされた旧幕府軍
薩摩の裏切りにも遭い、第二次長州征伐に失敗した幕府は次第にその力を失い、戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦いでは長州が作らせたニセモノと言われている「錦の御旗」の出現に足並みを乱し、戦闘に破れます。
既に容保を信頼していた孝明天皇は既にこの世を去り(暗殺の可能性あり)、世界と日本の時流の大局を見極めていた15代将軍徳川慶喜が、容保ら徹底抗戦派を押さえて彼らを連れて江戸に遁走した事で、正当な旧幕府軍としての抵抗に終止符を打ち、その後旧幕府は一貫して恭順の意を示し続けましす。
恭順の意を示すも許されなかった容保
慶喜の謹慎を受け、容保も新政府軍に対して恭順の意を示したものの、その処遇についての裁定は慶喜が謹慎であったのに対して、容保は死謝という苛烈なものでした。
この裁定には、容保が京都守護職であった時に、傘下の新撰組や会津藩兵による取締りで多くの志士の命を奪われた長州の私怨が含まれていると言われています。
ここに至り、鳥羽・伏見の戦いではまだまだ余力を残して撤退した会津藩は、やむなく徹底抗戦の構えを捕る事となります。
会津周辺の奥羽越の諸藩は会津救済に団結するも力及ばず
東北北陸の諸藩や新撰組の残党など、会津藩に恩があったり、その幕府への忠勤を高く評価していた勢力は、会津を救済しようと外交努力を重ねるも結果が出ず、やむなく新政府軍との交戦の道を辿る事になりますが、兵の装備の差が激しく、白河・二本松・長岡など、次々と要所を攻略されてしまい、ついには会津若松に新政府軍がなだれ込む事となりました。
既にこの段階で会津藩には万に一つも勝ち目は無かったのですが、会津藩士は老若男女を問わず、勇敢に戦い抜きます。
市街戦の局地的な斬り合いでは、会津側が有利に戦いを進めた場面もありましたが、銃器や大砲などの火力の差が大きく、野戦ではほとんど勝ち目がありませんでした。
白虎隊の悲劇もこの一連の戦闘の最中に起きています。
次々とアームストロング砲の砲弾が鶴ヶ城に打ち込まれる中、籠城戦で1ヶ月持ちこたえるものの、ついに会津藩はやむなく降伏することとなりました。
戊辰戦争の史跡を辿るならこのルートがおすすめ
東京から新幹線を利用して会津若松を目指すのであれば、およそ3時間で会津若松に到着する事が可能です。
ですが、会津若松には各所に史跡が点在していますので、市内はレンタカーで移動した方が何かと便利ですし、新政府軍の侵攻ルートに沿った形で白河や二本松の史跡に立ち寄りながら車で会津に向かうのもおすすめです。
東京から新白河まで1時間20分掛けて新幹線で移動し、新白河でレンタカーを借りてそこから北上して二本松を経由、新撰組の土方歳三が奮戦した「母成峠古戦場跡」に立ち寄り、猪苗代市、会津若松市外に向かうルートです。
白河市 戊辰戦争の史跡
白河市は白河の関で有名なように、関東から東北への玄関口となる、古来から地政的に重要な場所とされてきました。
会津に攻め入る為には、新政府軍がまず攻略しなければならなかったのが白河です。
この地を巡り、1868年閏4月から7月にかけて同盟軍と新政府軍の間で8回に渡る攻防が繰り広げられました。
初戦は会津藩・仙台藩がそれぞれ1,000の援軍を出しており、これに旧幕府軍・新撰組・棚倉藩兵が加わり、同盟軍は2,500の兵力となりました。
会津藩は西郷頼母を総督、横山主税を副総督としています。
対して新政府軍は伊地知正治を参謀として700~800の兵力でしたので、兵力としては圧倒的に同盟軍が有利な状況でした。
しかしながら、会津藩・仙台藩ともに総督・参謀らに近代戦の実戦経験がなく、自ら前線で采配を振るい、次々と指揮官が銃弾に倒れて行きます。
昔ながらの白兵戦と違って、思わぬところから弾が飛んできてやられてしまったのでしょう。
指揮官を失い、同盟軍は壊滅状態となり、開戦から3日目に白河城をあっさり奪われてしまいます。
この後、城を巡って3ヶ月間に渡り、両軍の攻防が続きますが、最後は新政府軍が同盟軍を退け、この地が二本松・会津侵攻への足掛かりとなります。
白河小峰城址
本丸は戦火により消失しています。
三重櫓…平成2年に再建されていますので非常に綺麗です。
内部はこんな感じです。
3階部分まで上がる事が出来ます。
挟間からの景色です。
市内が一望出来ていい感じです。
築城の際に人柱にされた娘の碑です。
三重櫓の脇に建っています。
展覧産馬記念碑、白河にも明治天皇が巡幸してるんですね。
白河市稲荷山古戦場跡
白河市稲荷山古戦場跡は白河口の戦いで激戦地となり、会津藩の若年寄、横山主税などが戦死した場所です。
周辺には両軍の墓碑が数多く見受けられます。
会津藩戦死墓
横山主税・海老名衛門ら、304人の名が刻まれています。
会津藩士、田辺軍次の墓
田辺軍次は、白河口の戦いで同盟軍が敗れたのは、後に白河県から白坂町取締りを任命された大平八郎が、新政府軍の道案内をした為であると信じていました。
戊辰戦争後に会津藩が滅藩となり、斗南藩(青森県むつ市)に転封された後に、約一ヶ月を要して白坂に到着後に、白坂宿鶴屋にて八郎を惨殺し、自らもその場で切腹して果てます。
長州・大垣藩六人之墓
白河口の戦いで戦死した、長州藩と大垣藩の将兵6名が葬られています。
大正4年までは薩摩藩7名の戦死者もここに葬られていました。
明治9年6月に明治天皇が立ち寄り、供養しています。
稲荷山古戦場跡
西郷頼母の歌碑が建てられています。
西郷頼母の歌碑
「みをかくす ことのできる かたつむりが うらやましい」
西郷頼母は、会津の祖である保科家の血を引く会津藩の家老でした。
一方で会津藩主・松平容保は、御三家尾張の支藩・美濃の高須藩から養子として会津藩を継いでいました。
祖父が水戸から高須に養子に入っていましたので、容保は水戸の血筋という事になります。
容保は会津藩初代藩主、保科正之の残した家訓に縛られ、西郷頼母の反対を押し切る形で、京都守護職を引き受けます。
要所要所で会津藩はかの家訓に縛られ、幕府の為に倒幕派の恨みを肩代わりして受けて行きます。
西郷頼母は保科家の血筋であったからこそ、家訓に縛られ過ぎないように諫言を重ねています。
これは会津藩の未来を思えばこその行動でした。
戊辰戦争の初期は、一貫して恭順する事を訴え続けていましたが、これが受け入れられずに蟄居させられてしまいます。
もう、戦争が避けられない状況となってから同盟軍の指揮を取るために戻されるのですが、白河口の戦いでは惨敗し、会津戦争の際には一族21人の自刃という憂き目に遭っています。
頼母自身は明治36年、74歳まで生き永らえており、この悲痛の思いに耐えながら、戦後の半生を送っている訳です。
周囲からも、朝敵会津・恭順を主張した腰抜け・切腹せずに生き永らえた臆病などと酷評されながら、そのような歌を残しています。
頼母としては、会津藩を思うが為に行った事ばかりでしたので、この様な結末となり、無念の思いであった事でしょう。
二本松市 戊辰戦争の史跡
白河から東北道を北上、車で約1時間で二本松に到着します。
二本松藩も新政府軍による激しい攻撃を受けて、白虎隊よりも若年舞台が参戦しています。
白虎隊よりも若年の部隊 二本松少年隊
白虎隊は16歳~17歳で編成された部隊でしたが、二本松少年隊は12歳~17歳の部隊でした。
会津は観光地としても非常に有名ですし、白虎隊の存在は万人が知るところであると思います。
それに比べて、二本松少年隊は認知度が低く、史跡に訪れる人もあまり多くはない様ですね。
二本松藩は織田信長の家臣、丹羽長秀の血筋の藩で戊辰戦争当時は、9代藩主丹羽長国が藩主を務めていました。
二本松藩は奥羽列藩同盟に加入し、主力部隊を白河方面に出していたのですが、1868年7月26日に近隣の三春藩が新政府に恭順してしまい、白河から進軍した板垣退助の部隊が三春城に無血入城します。
この板垣の部隊が二本松に侵攻を開始するのですが、二本松領内には主力部隊不在の為、少年や老人達までが出陣しなければならない緊急事態に陥ります。
藩は止むを得ず、数え年で13歳以上の少年にまで出陣許可を与えます。
ここで12歳から17歳までの出陣を嘆願した少年62名が、各部隊に配属されました。
特に最大の激戦地と言われた、城下入口の大檀口は、22歳の砲術師範・木村銃太郎を隊長とする、木村塾門下生を中心に編成した25名の少年のみで防衛に当たる事になりました。
それ程に正規の兵が不足していたという事です。
7月29日の朝に城下の各所で戦闘が開始されましたが、新政府軍7,000の兵力に対して、二本松防衛軍は僅か1,000の兵力しかなく、武器の性能差も大きなものがありましたので全く勝負にはなりませんでした。
その日の正午には城は炎上し、落城してしまいます。
この二本松での戦闘に関する逸話を2つ程紹介します。
長州藩士・白井小四郎を討った14歳の成田才次郎
二本松藩の剣術は、「斬る」事よりも「突く」事に重きを置いていました。
これは忠臣蔵で有名な浅野家と丹羽家が婚姻関係にあり、浅野が松の廊下で吉良を討ち損じたのは斬りつけた事によるという教訓から来ているそうです。
才次郎も父親からこういう教育を受けており、戦場でこれを実践しました。
白井と対峙した時に迷わず腹を狙って「突いた」のです。
この「突き」より、才次郎は白井を倒す事が出来ましたが、その直後に銃撃を受けて自らも命を落とします。
倒された白井の方も、才次郎と対峙した時に戸惑った事でしょう。
その隙を突かれて刺殺されてしまいますが、こういう少年兵と戦わなければならなかった新政府側の兵も自分たちの戦いに疑問を抱いたのではないかと思います。
13歳・岡山篤次郎
篤次郎は出陣にあたり、着物から手拭いに至るまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と母親に書いて貰うように頼みました。
自分の遺体を探し易くする為でしたが、母親はどういう気持ちでこれを書いたか考えると、やるせない気持ちになりますね。
二本松市はこういう出来事が起きた地です。
人口は約6万人と大きな市ではありませんが、こういう事が起きた事を後世に伝えようと、市の歴史資料館で重点的に展示しています。
また、二本松霞ヶ城址を訪れる人は少ないのですが、しっかりと整備を行っています。
少しでもこういう歴史を後世に残したいと思っている方は、是非訪れた方が良いと思う場所です。
二本松城址
非常に綺麗に管理されていますが、訪れる人が少ないのが残念でなりません。
二本松少年隊群像
大義の為に戦う、隊長木村銃太郎と少年隊士です。
国指定史跡 旧二本松藩戒石銘碑
駐車場の脇に建てられています。
これはかつて藩庁前だった城の東手から移設されたものだそうです。
「爾が俸 爾が禄は 民の膏民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し」と刻まれています。
武士の俸給は領民の汗と脂の結晶であり、領民を虐げる事は出来ても、天を欺く事は出来ないという戒めで、こういった気風が二本松藩には根付いていました。
明治天皇駐蹕碑(ちゅうひつひ)
城内に建てられています。
明治9年、明治天皇が東北巡幸の際に、立ち寄りました。
大隣寺
二本松少年隊、隊長・副隊長と14名の少年隊士の墓
地元の方か、お寺の方が供養されている様子です。
会津藩士・仙台藩士の戦死墓です。
二本松の史跡は、地元の人達の思いとは裏腹にほとんど訪れる人がいないように感じますが、戊辰戦争の戦地を辿るなら是非とも訪れておきたい場所です。
猪苗代市 母成峠古戦場跡
二本松市から国道459⇒国道159というルートで北側から国道を進んで行きます。
このルートは良く路面も整備されていて走り易く、時折霞んで見える山肌や市街地がとても綺麗です。
途中で市街が一望出来る休憩所がありますので、ゆっくりドライブするには持ってこいのコースです。
母成峠での戦闘
さて、二本松城を陥落させた新政府軍は、三手に分かれて母成峠に殺到しますが、新政府軍、板垣退助・伊地知正治・谷干城・川村純義率いる3,000の兵を迎え討った同盟軍は、大鳥圭介・田中源之進・丹羽丹波・土方歳三以下800名でした。
多勢に無勢、その上三方から攻めかかる機動性に優れた戦術に、同盟軍の陣地は次々と突破され、この戦いは早朝から夕方の半日で決着がつきます。
新政府軍の戦死者は25名、同盟軍の戦死者は88名と言う事です。
周囲は小さい公園になっており、鶯(うぐいす)などの野鳥のさえずりが真夏の暑さを和らげます。
夕方になれば涼しくなるでしょうから、ここで夜通し酒を飲みながら、英雄達を慰霊するものまた趣があると感じました。
亀ヶ城址公園(猪苗代城)
母成峠を破った新政府軍のが次に目指したのは、この亀ヶ城です。
思いのほか母成峠を短時間で突破され、防備が手薄だった会津軍は、虚を突かれて城に火を放ち会津若松に退却しました。
当時の建造物は焼けてしまった為残っていませんが、小さい公園になっており良く整地され、地元の住民や観光客の憩いの場となっています。
野口英世も、少年時代にここに写生に来ていたそうです。
写真を見れば分かると思いますが、緑に囲まれとても綺麗な場所ですよ。
会津藩の祖 保科正之墓所 土津(はにつ)神社
亀ヶ城址公園から車で数分で、保科正之の墓所である土津(はにつ)神社に到着します。
保科正之は2代将軍徳川秀忠の庶子として、1611年に生まれましたが、母親は北条家旧臣、神野栄加の次女である「お静の方」です。
秀忠の正室で淀殿の妹である「お江の方」が嫉妬心の強い女性であったらしく、「お静の方」は義兄の家で正之を産んでいます。
正之誕生の翌日、秀忠は我が子であると認知をしましたが、正之は江戸城に入る事を許されませんでしたので、武田信玄の娘である「信松院」、後に「信松院」の姉である「見性院」のもとで育てられる事になりました。
因みに、「見性院」に正之の療育を依頼したのは、老中土井利勝であるとされています。
1617年、正之は7歳になっていましたが、将軍家から何の音沙汰もなかった為、「見性院」は今後の療育を信州高遠(たかとお)藩主、保科正光に委ねる事にします。
保科家は、正光の祖父の正俊の代に武田信玄に仕え、父の正直の代に徳川家に出仕して、信州高遠領2万5千石を与えられています。
この保科家というのが剛勇と名高い一族で、武田勝頼の時代に織田・徳川連合軍が高遠城を攻め落とした際に、副将であった保科正直は最後まで戦い抜いた後、落城間際に城を脱出しますが、半年後にわずか500の手勢で織田信忠軍から高遠城を奪い返すという荒業をやってのけます。
武田の家臣の中でも、最も気骨のある一族でした。
この保科家に迎え入れられ、武田の気骨を受け継いだ正之は1631年に、21歳で高遠藩主となりますが、その後出羽最上(山形)を経て会津23万石に転封を命じられ、会津藩の祖となる訳です。
会津藩主となった正之は、兵力の強化・殖産興業・備蓄倹約を奨励し、その能力を高く評価した3代将軍家光は1651年の死の床で、正之に4代将軍家綱の補佐を託します。
これ以降、正之は幕政の中心的存在になり、数々の善政を行いその名を後世に残す事になります。
そして、会津藩に例の家訓を残す訳です。
幕末の会津藩にまで「高遠以来」という言葉があり、高遠藩から仕え続けた家臣達が武田の気骨を受け継いでいました。
これが一時代を築いた会津の藩風であり、会津戦争の悲劇は新しい時代を迎えるのに必要だった「痛み」であると解釈しています。
保科正之の墓所、土津神社(はにつじんじゃ)は、亀ヶ城址公園から北に1Km程の小山の麓にあります。
この山道を登っていった先に正之の墓があるのですが、当日は夏場は暑く、アブや蚊も多いため出来れば虫除けスプレーなどを用意した方が良いでしょう。
そして…ようやく辿りつきました。
仏式の墓とは大分違いますね。土が盛ってある墳墓です。
会津若松市内の史跡
白虎隊奮戦の地 戸ノ口十六橋 戸ノ口原古戦場跡
母成峠を抜いた新政府軍は、亀ヶ城(猪苗代城)が自焼するのを確認し、怒涛の勢いで戸ノ口十六橋に殺到します。
この橋は、戦略上非常に重要なポイントになっており、ここを抜かれれば会津若松の城下は無防備な状態となります。
新政府軍としては、敵の本拠は目前、会津藩側にとってはなんとしても抜かれてはならない要所でした。
少しでも時間を稼ごうと会津軍は橋の破壊を試みますが、あまりにも新政府軍の侵攻速度が予測を上回り、敵が目前に迫ってから橋の破壊を開始する羽目になります。
しかし、これが石橋だった為に容易には破壊出来ず、短時間で橋を奪われてしまいます。
その後戸ノ口原で戦闘となり白虎隊もこれに加わりますが、新政府軍の猛攻に全く歯が立たず、白虎隊はちりぢりになりながら鶴ヶ城を目指して退却して行きます。
ここで本体とはぐれた士中二番隊の20名が、戸ノ口堰洞穴を抜けて飯盛山に辿り着くのは有名な話です。
戸ノ口原古戦場跡
因みに会津戦争に備えて会津藩は軍制改革を行っていますが、その時に部隊を年齢別に4つに分けています。
玄武隊…50歳以上
青龍隊…36歳~49歳まで
朱雀隊…18歳~35歳まで
白虎隊…16歳~17歳まで(それ以下も結構いたようです)
更に藩士の身分で次の3つに分けています。
士中隊…上士
寄合隊…下士
足軽隊…足軽
この中で更に~番隊の様に分かれていて、例えば白虎隊の場合は、士中・寄合・足軽が各2隊あり、定員は1隊につき約50人といったところだったそうです。
白虎 一番 士中隊みたいな感じで部隊を識別してたのでしょう。
通常の藩ならば青龍隊、朱雀隊といったところが戦力になりますが、当時の状況が状況でしたので、藩士皆兵、女性までもが志願して出陣しています。
戦況からして勝てる見込みはまずありませんでしたが、武家としての誇り、忠義を尽くす為、それを分かっていながら皆戦いに出ていました。
白虎隊出陣の地 滝沢本陣
松平容保を護衛する事が任務であった白虎士中二番隊は、戸ノ口十六橋を突破した新政府軍を迎え討つ為に護衛の任を解かれ、滝沢本陣で容保の命を受け、出撃して行きます。
既に戦況は悪化の一途を辿っており、白虎隊が出撃したところでこれを覆す事は不可能な状況でした。
西洋式の火器で完全武装され、母成峠では土方歳三や大鳥圭介など、戦闘のエキスパート達を難なく打ち破って来た新政府軍に立ち向かうのは、竹槍で火炎放射器に突撃するようなものでした。
白虎隊は戸ノ口原古戦場跡で新政府軍と交戦するも、歯が立たず、飯盛山に敗走する事となります。
会津軍を打ち破った新政府軍は城下に押し寄せ、至る所で市街戦となりました。
弾痕や刀疵が壁や柱のあちらこちらに残っており、当時の戦闘の激しさを物語ります。
家具や農具も展示されており、武家の生活様式が窺い知れます。
日本式の庭園です。
最近少しずつこういう物の良さが感じられる様になってきました。
便利さとは対局の美しさです。
心の豊かさと言うのはこういう環境で養われるのでしょうか。
白虎隊自刃の地 飯盛山
白虎隊記念館の先にある長い階段を上ると辿り着くのが白虎士中二番隊十九士の墓です。
人気のある自刃した十九士の墓には、常に多くの線香が焚かれています。
それとは対照的に、傍らにひっそりと建てられている十九士以外の戦死者の墓にはほとんど線香が焚かれていない様子でした。
十九士だけが特別な存在ではなく、命を落とした人達全てが私にとっては尊敬に値する存在ではないでしょうか?
これをどう捉えるかは、人それぞれの人生観次第だと思いますが。
十九士自刃の地に向かう途中にある飯沼定吉の墓です。
十九士と共に自刃したものの、一命を取り留めた定吉は、晩年になりようやく飯盛山に撤退した士中二番隊の顛末を語ります。
一般的には城下町が燃えているのを見て、城が燃えていると勘違いして自刃したという事になっています。
しかし、実は状況の判断を誤ったのではなく「新政府軍の追撃を逃れて城内に入るのは不可能と判断した為」と定吉が語ったという説もあります。
白虎士中二番隊十九士自刃の地です。
ここは市内を一望出来る場所ですので、当時ここから鶴ヶ城がどの様に見えたか想像に難くない眺めです。
旧幕府側に付き、関東から東北にかけて転戦し、鶴ヶ城での籠城戦にも参加した「郡上藩凌霜隊の碑」です。
郡上藩の藩論は新政府側に恭順でしたが、旧幕府側の勝利の可能性も考え、藩命で45士が江戸藩邸を脱走して旧幕府軍に加わったとされています。
戸ノ口堰洞穴
一旦十九士の墓に戻り、別ルートで山を下ると「戸ノ口堰洞穴」を見る事が出来ます。
士中二番隊の二十士は、戸ノ口原古戦場跡(白虎隊奮戦の地)から、この水路を通って飯盛山に辿り着くのですが、意外と水の流れが激しく、満身創痍の者が多かった様ですから、必至の思いでここを抜けて来たのだろうと感じます。
会津藩武家屋敷
戸ノ口十六橋を新政府軍が突破すると、随所で市街戦が発生し、会津若松の城下は地獄絵図と化します。
予想外に新政府軍の侵攻が早まった為、鶴ヶ城内への避難が間に合わなかった誇り高き藩士の家族らは、敵の辱めを受けじと次々と自刃して果てました。
実際に自刃の現場となった会津藩家老の西郷頼母邸を忠実に再現したのが会津藩武家屋敷です。
香取慎吾が近藤勇を演じた、2004年NHK大河ドラマ「新選組」のロケにも使われた場所です。
流石に会津23万石の家老ともなると、他の武家屋敷とはスケールが違います。
用途の違いによって様々な部屋が設けられており、各部屋の用途により格式の異なる作りとなっています。
最も格式の高い、藩主を迎える間です。
城からの使者が家老に謁見する、使者の間です。
他にも質素な造りの家族の間などがあり、同じ屋敷の中でも公と私を明確に線引きしているのが見てとれます。
会津藩主松平容保の墓所 会津松平家廟所
二代目会津藩主「松平正経」から九代目藩主「松平容保」は、東山町院内の山中に眠っています。
廟所の入り口は山の麓にあり、同じく神道の墓である土津神社の保科正之墓所に似た雰囲気です。
目指すはもちろん、九代藩主容保の墓でが中々険しい山道なんですね、これが。
しかも、登っても登っても中々先が見えてきません。
20分程歩いてようやく代々藩主の墓に辿り着きます。
苦労して辿り着いた喜びもひとしおでしたが、それ以上に何か汚れた物を寄せ付けない神聖さを感じました。
神道の墓はまじまじと見た事はなかったのですが、かなり変わった形をしています。
土台の石は亀を表しているそうです。
容保の墓は、ここから更に奥に進んだ場所にありました。
この人の人生を史実に忠実なドラマにしたら、非常に面白いのではないかと思います。
徳川御三家尾張藩の支藩、美濃高須松平家から養子に入り会津藩を相続した彼は、ひたすら義を貫き通した人でありました。
容保は何を想ってここに訪れる人々を見ているのでしょう。
会津若松 鶴ヶ城
難攻不落と言われた鶴ヶ城は、場内に避難してきた藩士やその家族らの非戦闘員3割を抱えて1ヶ月間の籠城戦を持ちこたえた名城です。
【会津戦争後の鶴ヶ城】国立公文書館
新政府軍の無数の砲弾を受け続け、無残な姿になった「名城」鶴ヶ城は、修復もされずに雨ざらしになっていました。
1873年(明治6年)12月に、若松県(現在の福島県北部)権令の沢簡徳が、この見るに堪えない鶴ヶ城の惨状を右大臣、岩倉具視に示し、一旦これを撤去し、後日改築して欲しいと訴えました。
これはその実情を訴える為に使用された写真なのですが、これを受けて翌1874年(明治7年)に鶴ヶ城は解体されます。
しかし・・・朝敵の汚名を着せられた会津藩の城でしたから、そう簡単に改築という訳には行きません。
結局、その城跡は1934年(昭和9年)に旧会津藩士の方々の力添えがあり、国定の史跡となります。
そして、市民の強い要望で、解体から約100年の歳月を経て、1965年(昭和40年)に天守閣が再建されました。
平成23年には幕末時代の瓦(赤瓦)への改修が行われ、日本で唯一の赤瓦をまとった天守閣を持つ城として、白虎隊自決の地、飯盛山と並んで会津若松のNo,1の観光スポットになっています。
奥会津 河井継之助記念館
河井継之助記念館
会津若松市から、国道252線を只見川沿いに東に向かって走る事およそ2時間、会津塩沢の河井継之助記念館に到着します。
道中はこんな景色がしばらく続きます。
駐車場は国道沿いにあり、車を停めて徒歩で線路を渡ります。
のんびりしていて、なかなか良い雰囲気ですね。
建物もモダンな感じで凝った造りになっています。
自治体のこだわりが感じられますね。
中に入ると、いきなり河井継之助が出迎えてくれます。
展示物は北越戦争時のビデオや勢力図など、視覚・聴覚に訴える物が多く、歴史に詳しくない人でも当時の状況を簡単に把握出来る様になっています。
また、只見町の広報も無料で配布されており、河井継之助の周知にはかなり気合が入っている様子です。
ガトリング砲を自ら操る河井継之助もいました。
記念館の裏手には河井継之助の墓もあります。
継之助の最期を看取り、墓を建てた当時の会津塩沢の人々や、それを風化させぬように現代まで残した人々。
現代人が無くしてしまった志や心がそこにあるように思います。
北越戦争
北越戦争は約二ヵ月半に渡る大激戦で、戊辰戦争において旧幕府勢力が最も新政府軍を苦しめた戦いと言われています。
現在の新潟県長岡市にあった長岡藩は、家老の河井継之助が藩政の抜本的な改革を行い、戊辰戦争中期には、北越随一の近代的武装国家になっていました。
長岡藩は全藩士をフランス式ミニエー銃で武装し、大砲14門、また、当時日本に3門しかなかったと言われる、ガトリング砲を2門も購入しています。
軍備が充実していた同藩ですが、国力をいたずらに疲弊するような内戦は良しとせず、第二次長州征伐にも出兵していません。
財政的な事情からの日和見ではなく、世界的な視野で日本を考えての選択でした。
新政府軍が進軍して来た際に、継之助さんは単身で小千谷の新政府軍本営を訪ね、「国力を消耗させるような内戦は国家の為にならいので、長岡藩は抵抗する意思はなく、あくまでも中立を保ち、それが認められるのであれば領民とともに国に尽くす」というような内容の嘆願書を土佐藩出身の岩村高俊に手渡し、交渉を行います。
しかし、岩村は23歳という若さで、上層部の「会津攻めに従わない藩は、討伐せよ」という命令に忠実に従い、これを全く受け入れませんでした。
長岡藩の戦力分析を全く行わなかったようです。
これで戦闘が避けられなくなり、戊辰戦争最大の激戦となった訳です。
一度は列藩同盟入りを断っていた長岡藩ですが、ここで列藩同盟入りする事になります。
戦闘は5月4日から開始され、当初、同盟軍側が陣取った小千谷の朝日山が主戦場となりましたが、新政府軍はなかなかこれを落とすことが出来ずに、膠着状態が続きます。
そこで新政府軍は防備が手薄になった長岡城に裏手から回り込み、5月19日に城を落とす事に成功します。
ここで勝負あったかと思えるところなんですが、ここからが継之助の凄いところで、一旦退いた後に長岡城に夜襲をかけ、なんとこれを奪還する事に成功します。
継之助は政治面だけでなく、戦術にも優れ、胆力もあったんですね。
しかし、新規に投入された新政府軍の猛攻により同盟軍は壊滅し、長岡城は再度落城してしまいます。
継之助はこの戦闘で膝に被弾し、会津藩領の塩沢まで撤退しましたが、破傷風を発症し42歳でその生涯の幕を閉じます。
幕臣の小栗忠順と言い、新政府で活躍できそうな先見性の持ち主がどんどん死んでいったのが戊辰戦争だと思います。
歴史の潮流というのはこういう優秀な人たちを容赦なく呑み込んでいってしまいます。
それが運命だったとも言えるかもしれません。
継之助の墓は長岡と塩沢にあります。
火葬された骨を塩沢の人たちが残った骨を拾い集めてお墓を建てたそうです。
私と会津若松
今年は夏休みに家族で会津若松に行く予定です。
若松には小学生の頃に一度と会社の絡みで2度行っているんですが、落ち着いて好きなところに行けるのは子供の頃以来なんですよね。
確か小学4年生くらいではなかったかと思います。
私の母親が引率者となって、友達を数人連れていったのですが、旅行に出る前にちょっとした事件が起きました。
まぁ、私にとってはちょっとしたどころではなかったんですけどね。
実は予定されていた日に私が高熱を出してしまったんです。
寝ているだけでも天井がグルグル回っている状態で、まともに起き上がる事すら出来ませんでした。
しかしながら、母親が旅行の言いだしっぺでしたので、友達の親御さんの手前、息子が熱出したからといって自ら中止にするとは言い出す訳にはいかず、なんと私は置いて行かれる事に…。
もう、失意のドン底どころではなく、本気で死ぬかと思いましたがこちらの心境でじっと我慢する事にしました。
まぁ、結果としてはお察しの通り、友達の親御さんが気をきかせてくれて、旅行は延期になるんですけどね。
子供でしたので、成り行きが読めず、本気で置いていかれたんだと思いました。
さて気を取り直して旅行の日がやって来ます。
寒かったような覚えがあるので、冬休みにでも行ったのだと思います。
そこら辺の記憶が曖昧なのは、多分年齢のせいで脳が劣化しているからなのでしょう。
電車を乗り継いで会津若松に向かったのですが、車窓から眺める景色がとても綺麗だったんですよね。
私は神奈川生まれの埼玉育ちでしたので電車で渓谷を通ったのは初めてでした。
あまりにも幻想的な景色でしたので、何か現実の世界ではないような気がした、という事ははっきり覚えているんですね。
ただ、記憶が断片的過ぎるんですよね、きっとアホな子だったんでしょう。
さて、会津若松では武家屋敷と飯盛山に行った記憶があります。
子供ながらに壮絶な出来事があったんだなと実感しました。
唐牛の毛を被った官軍は怖い人たちなんだと…漠然とそう感じたかと思います。
当時は明治維新の歴史は詳しく知りませんでしたので、そう感じるのが普通でしょうか。
まぁ、詳しく知りすぎるとやっぱり官軍にはマズイ人も中にはいたようで・・・いや、結構いたかもしれません。
ただ、官軍の方にも色々な事情があったでしょうから、私はこの事を以って一概に善悪の判断は致しませんけどね。
話は変わりますが、当時の土産物屋さんにはミニチュアの短刀(ちゃんと刃がついている)などが売られていました。
今では色々と規制が厳しくなって店頭からは消えていますが、私は刀だとか甲冑に興味がありましたので、その一つを買って帰りました。
結局、果物やら野菜やらを切りまくってサビサビになるまで遊んでいましたが、刀という物がどういう物なのか…荒唐無稽な漫画なんかでは何でもかんでもスパスパ斬っていたりするのですが、遊びながらこんなのものかと体感的に理解していったような気がします。
それ以来特に刃物という物に興味を持つ事は無くなったのですが、最近になり博物館などに展示されている刀を見て美術品としての価値というか、まぁ私は美的センスはゼロなのですが、真剣という物はとても美しいなぁと思うようになってきました。
刀匠が魂を込めて鍛えた作品ですから、美しいのは当然でしょうか。
我が家の床の間にも一振り飾って置きたい気分ですが、値段が値段ですし届け出も必要ですから、いつか環境が整ったら検討してみようかと思います。
20年位先になるかも知れませんけどね。
さて、前振りが長くなりましたがそんな訳で、会津若松への思いはこれくらいにして、次回は旅行の計画について書こうかと思います。
戊辰戦争の戦地に赴く
今回の旅行では埼玉から会津に向かいますので、以下のようなルートで戦地を辿ってみようと思います。
1.白河城⇒稲荷山・白河の関⇒二本松城
2.母成峠⇒亀ヶ城⇒土津神社
3.戸ノ口十六橋⇒戸ノ口原古戦場跡
4.白虎隊記念館⇒飯盛山⇒滝沢本陣
5.鶴ヶ城⇒会津武家屋敷
6.松平家墓所⇒天寧寺⇒愛宕神社
7.大内宿
ちなみに「白虎隊」を子供の自由研究のテーマにする事になったので、先日図書館で白虎隊に関する子供向けの本を借りに行ったんですよね。
そこで出てきたのが、良い具合に日に焼けた40年位前の本だったのですが、意外と分かり易く書いてあって良い感じでした。
子供向けの本も捨てたもんじゃないです。
結構面白いですよ。
この夏には日野の新撰組資料館や、勝沼古戦場跡、時間が許すようなら会津藩の祖、保科正之が育った高遠城まで足を伸ばしてみようかと思います。
これではまるで私の方が自由研究ですね。